頭の楽健法
 
 高橋 流美

<楽健法とは何か?>
この数ヶ月、各地の楽健法仲間と組織作りについて話し合いました。話せば話すほど、それぞれの「楽健法」像の違いが炙り出され、そもそも組織化など不可能 かと途方に暮れるほど。
「盲人と象」の話を思い出しました。
私たちは皆もれなく盲人であり、自分の触れた楽健法の片鱗を「楽健法」と呼んできたことがよくわかりました。
しかし、これが私の楽健法、それがあなたの楽健法、という多様なあり方を許すのが楽健法の懐の広さです。
楽健法を定義すると、読んで字のごとく「楽に、楽しく、健康になる方法」です。 何が楽で楽しいかは人それぞれ違いますし、「健康」の定義も一括りにするのは難しそうです。
狭義では、二人組になって、足で全身をほぐし合い循環をよくする健康法ですが、
広義には、仏道やアーユルヴェーダをも超える可能性を秘めた「自分を生きる」技法です。
1980 年代末に楽健法が我が家にやってきて、我が家流「15 分休憩踏合い」が定着した頃、2006 年に、 初めて和尚さんとお会いしました。開口一番「さあ、今日はどんな新しい踏み方に出会えるか、楽しみ にしてきました」と仰ったことを覚えています。
また「楽健法をフルコースで踏んだら、最短で 30 分。これで二人元気になるんだから、こんな効率的 な健康法は他に知りません。これより簡単に同様の効果が得られる方法を知っていたら、ぜひ僕に 教えてください。明日からそれを『楽健法』と呼びましょう」とも。
確かに、2006 年に教わった膝を屈伸する舟漕ぎのような踏み方から、2012 年の奈良移住後、 和尚さんに再会した時には、まるでサルサを踊るような踏み方に変化していました。 踏み手の膝を痛めず、より効果的に踏み手自身が緩む踏み方に進化しているのです。

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常に形を変えて進化、変化していく生き物のような楽健法。
石に刻まれた型はありません。
型なしでは、入門者がどうしたら良いのか皆目分からないので、入口には型があります。
楽健寺天然酵母パンも然りです。「小麦 300g に対して、楽健寺天然酵母は何 g 入れたらいいですか?」 という問いに「どうぞ、お好みで」と言われても困るので、初心者には型を教えます。でも、実際に は樽いっぱいのパン種に、たった大匙一杯の酵母でも醗酵は充分進みます。
深みに入れば入るほど、独自の工夫や改良を重ね、一期一会臨機応変に型から自由になっていきます。 「とにかく自分で実践してみて、それぞれに都合のいい塩梅を探しなさい」というのが和尚さんの 教えです。
50 年間、指導に東奔西走してこられた和尚さんご自身が、歳を重ねて変化成長されているのです。 初期の頃に教わった長女らの育てた子や孫達と、近年習った末っ子らの育てた子らでは、そのスタイ ルや教え方の比重が千差万別なのは極めて自然なことであり、そのどれもが、その土地土地で必要に 応じて変化を遂げて熟してきた、それぞれの楽健法と言えるでしょう。各家庭や、個人施術の中で 発明発見された未発表の技も、数限りなくあるはずです。
健康法先進国のインドで、アーユルヴェーダのセラピスト達を中心に楽健法を伝えると、あっという 間にその核心を掴んで、独自な方法で一人歩きしていく様子が手に取るように伝わってきます。 リシケシで初めて楽健法を受けた、音楽療法家が言いました。「これはセックスよりいいね! 情に触れずに、心にアクセスできるなんて、Rakkenho って、すごい!」
今後、大家族の繋がりの残っているインドや中国、ロシアに広く伝わっていくことで、「どれが正当で、 どれが亜流か」というような硬直した、狭く排他的な世界の外に、大きく軽やかに、楽健法が羽ばた いていく予感がします。
それに伴い、どれが自分にあった楽健法なのか、誰にだったら安心して身を任せられるのかなど、各自が再確認していくことの重要性も高まっていきそうです。
私たち盲人が、巨大な象に触れながら、壁だ、いや木の幹だ、ロープだと主張して分断してしまった らお話は終わりになりますが、相手の真実を尊重しながら根気よく対話を続けて、緩やかに繋がり続 けていけたら、Rakkenho が、世界の家庭医学の常識になる日が来るのかもしれません。

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<フィジカルとメタフィジカル ー 人間の進化>
肉体が、受精後に段階を追って形成され、誕生後も順を追って成長していくように、気の層においても、物質的な生命を支える下半身のチャクラから、順に上へ 移動し、やがて精神や霊性を支えるより微細な頭部のチャクラへと、徐々に発達していくと言われています。心や精神もまた、自己の生存や損得を考えて満足し ている次元から、自己鍛錬へ、そして自分以外の人々の幸せも願う次元へと、
順を追って成長していく「健やかな道筋」というものがあるでしょう。
フィジカルが一旦充実した後に、メタフィジカルへと成長が進むからといって、
フィジカルが下等で、メタフィジカルが上等かというと、そう単純な話でもありません。
思考に従って脳がいくら命令しても、背骨を通じて手足が指示通り動かなかければ、何ひとつ実現さ れません。脳は司令塔気取りですが、手足のストライキにあえばまったく無力な、たかが司令塔です。 むしろ、絶望した時に、虚無の中から生存を支えてくれるのは、勤勉で地道な作業を淡々と実行する 手足の営みです。肉体が不調の時は、気力で引っ張り上げ、気力精神力が落ちている時は、肉体をメ ンテナンスすることで立て直す。表裏一体で、どちらからもアプローチできることを、私たちは体験的に知っています。
肉体と魂(心)は、まさに「同行二人」、持ちつ持たれつ常に互いを補完し合って機能しています。
現代は、メタフィジカルな活動ばかり先行し、フィジカルが未発達な頭でっかちの多い社会で、和尚さんはこの「観自在なだけ」の存在を「何でも知っている馬 鹿」と呼びますが、メタフィジカルを伴わ ないフィジカルな活動は、私利私欲による右往左往で「何も知らない馬鹿」と言うわけです。
フィジカルとメタフィジカルのバランスは人様々で、それぞれの役割の重要性をよく理解し、バランスよく「瞬時の判断」と「瞬時の実行」ができるのが、和尚 さんの言われる「観自在、動自在」だろ
うと思います。視力が曇っていても、手足が錆び付いていても、具合が良くありません。
世の人々が、多様な次元の相手と楽健法を嗜むことで、切磋琢磨、身体も頭もほぐして、様々な刺激 と気づきを得て、「人としていかに生きるか」について、もう少し思索することを促すのも、楽健法の 役割というわけです。
「君(の生き方)、もうちょっと何とかならんのか?」 追い詰めるでもなく、叱咤激励でもなく、そよ風のような、和尚さんの情け深い問いかけです。

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◯楽健法 十住心論(即興の思いつきで!未熟につき伸び悩み気味ですが ) とにかく踏んで欲しい、踏むのは面倒下手な人に踏まれるのは嫌、上手な人に踏んで欲しい できれば和尚さんに!

これだけ気持ちいいのだから、踏んでもらったら、踏み返してもいいか

踏んでもらえる幸せ、踏ませてもらえる幸せに気づく

踏んで相手が至福なら、寝逃げされても、まあいいか

どうやら積極的に踏む方が、踏まれるよりも格段、代謝も徳も高まるようだ

踏んでも踏まれても元気になり、喜びと気づきのあるこの行法、少しでも多くの人に伝えなきゃ!

相手が、初心者でもベテランでも、子供でも巨人でも、いずれにせよ、発見と学びがある面白さ

横になれない、踏み合えない相手と、さてどんな「楽健法」が可能だろう?
この人の心身を楽にするのに、一体私に何ができるか、試してみよう

施すばかりではアンバランス 多様な形の「施し」を味わって受け取ることも、また徳なんだなぁ

一期一会のご縁の繋がった相手と、今ここで、挨拶代わりに一曲のダンスを踊り
そよ風と戯れるように「本日の楽健法」を交わして、ともに心身晴れやかに
長年実践していても、日々の体調により、行きつ戻りつ。この十住心論、今後どう変化していくか、
乞うご期待!

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<二人ヨーガ・他力ヨーガ「楽健法」の可能性>
私自身は、生き方暮らし方のベースに、すでにヨーガのあるところに、楽健法と出会いました。
肉体を非本質的なものと考え、メタフィジカルなものに重きを置くインド哲学的な世界観がすでにある中で、楽健法のみを実践することで「人がどこまでメタ フィジカルな視力を獲得できるのか」を純粋に検証することはできませんが、二人組になって行うことで、従来のヨーガだけでは簡単に得られない気づきがたく さんあることは、間違いありません。
まず、ヨーガで自分を観察するように、他者をも観察するようになります。例えば、軸足にほとんどの体重を残したまま、足が辛くなっても容易に相手に体重を 委ねられない方は、人間関係も遠慮がちだったり、劣 等感が根強く拭えない方は、しばらくして技術が身についてくると優越感も強くなりがちで、劣等感と優越感は根っこが同じなのだと気づいたり、強く踏まれる のがお好きな方は、ついつい相手も強く踏みがちで、 それに対してどこまで細やかに自分の気持ちを相手に伝えられるかで、自分自身の労り方に気づくことができたりします。
大勢の組み合わせを考えるときは、できるだけ公平に、組んだことのない相手と、経験の有無などを考慮しながら組み合わせるのですが、毎回、絶妙に収まると ころに収まることが分かってきました。 それでも稀に、不平不満や接触事故が起こるのですが、その時にその方の本質的な部分が垣間見ます。このような人間模様、人間観察能力が、楽健法をやってい るうちに自然と養われてきます。
和尚さんはよく、足の裏の小指球を「楽健法の眼=相手の凝りや不具合を感じ取るセンサー」と呼び「そこ でしっかり相手の身体を読み取りなさい」と仰います。そうしているうちに、だんだんとメタフィジカルな 視力が足の裏にもついてきて、内股の異様な強ばりに触れて「何かあったの?」なんて言い当てることもしばしばです。
足の裏は、言葉以前にたくさんのことを読み取るようになります。その人の身体が、その人の生き方によく 似ているように、踏み方にも、その人らしさがよく現れると思います。
また、楽健法は「二人ヨーガ・他力ヨーガ」とも言われます。
「ヨーガ」を「健康法」くらいの意味に捉えれば、なんの疑問をありませんが、楽健法を「他人に踏んでもらって、楽して健康になれる方法」とだけ捉えていた ら、楽健法の醍醐味を逃します。
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それでも 100 日連続して踏んであげると、メタ盲人にもメタ視力が芽生えてくるというのですから、 これは、私たち、もっともっと踏まれないといけないですね!踏んでばかりいる場合じゃありません。笑
和尚さんがよくこんな冗談を言います。「楽健法には、ひとつだけ欠点がある。病気というのは、その人の 生き方暮らし方が間違っているよと教える天からのギフトなのに、楽健法をしてあげると病気が治ってし まうので、本人が反省しないこと」だと。
実際には、満ちて溢れてきたら、分け与えたくなるのが摂理ではないかと思います。 人を踏む気力も体力もない人が、楽健法でだんだん元気になってくると、自然と人を踏んであげようという 気になるから不思議です。
「ヨーガ」とは本来「結ぶ・繋ぐ」という意味で、小さな自分と大いなる世界を一体化させていく技法で、 目的は「自由になること」。基本的に一人で行う自己変革行法です。
その自己変革行法を二人で行うわけですから、何だか禅の公案みたいだなと思っています。
ヒントになりそうな和尚さんの言葉を集めてみました。
「青竹踏みは身体にいい。でも、青竹は『ありがとう』と言ってくれないし、心待ちにもしてくれないから ね」
「ヨーガって、暗いじゃない。一人で仰向けになって手足をぶらぶらさせたりして(和尚さん、それは西式 健康法!)。それで独りだけ元気になって、あぁ時間がもったいない」
今回のお題の中にも「いろんな次元の人と楽健法をやっているわけです。かりかりすることはすこしもあり ません。自分の視力が曇らなければいいんです」とあります。
「楽健法をやっていると、好敵手(ライバル)はいても敵はいないことに気づいていきます。 目に見えない餓鬼までも、排除せずに共に生きるのが、共生浄土(ぐしょうじょうど)」
「アーユルヴェーダの全身オイルマッサージなんて、いいに決まってるけど、毎日あんなにオイルを
排水口から流したら環境を汚染するし、後片付けも面倒だから、毎日は無理」

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要は、自分の心身の循環を促進させ、人格の成長を促す修行法としての楽健法がまずあり、副産物として、 青竹の代わりにそこに横たわっている人間がほぐれて循環が良くなる。その間に、異次元の他者との遭遇と 刺激、交流や気づきがあって、互いに磨き合える。
楽健法は、一石三鳥、自己の修行ついでに、発心できない他者も放っておかず、エコで効率的で、せっかち な現代人にぴったりの、画期的な健康法と言えるかもしれません。
「青竹踏み」なのですから、本来自分が踏んだだけで終いでいいはずですが、相手に「施す経験」までさせ てあげる、どこまでも慈悲深くお節介な健康法でもあります。
日常では、和尚さんが幸子先生に、さくっと超特急のサルサを踊り、「では、宥厳さん、踏みましょうか」 と言う幸子先生の好意を無慈悲にかわし、スッキリさっさと所用に戻る和尚さんの姿を何度も見かけてい ます。
私は一人の静かな凛としたヨーガの時間も、二人で踏み合ういそいそとほっこりする時間も、どちらも甲乙 つけがたく好きなので、どちらかを選ぶつもりはありませんが、家庭で自分を磨きながら、他者の視力も促 進して喜ばれる楽健法は、行き過ぎた病院医療が限界を迎えた現代社会では、圧倒的に需要があるのではな いかと思います。
<宗教を超えて アート=健やかに生きる技法>
さて、和尚さんは真言宗の僧侶ですが、常々「メタ宗教を獲得せよ」(宗教を超えていきなさい)というこ とを仰います。
宗教を超えた和尚さん曰く、人間としての成熟・開花は、どうやら「無自覚→道徳→宗教→アート(芸術)」 という順番を辿るようです。 (『二人ヨーガ楽健法』p14~15 楽健法急所名解釈 参照)
無自覚で自分の損得のことしか考えられない弟子には、道徳や宗教を説き、宗教や教義を盲信して視野が狭 くなっている弟子には、宗教を超えてゆけと説く。このように、相手に応じた法を解くことを「対機説法」 と言うそうです。
以前、奈良の松前教室で「宗教者の真摯な生き方に憧れつつも、完全には自分自身を宗教に委ね切れない」
と、宗教と懐疑心について持ちかけた弟子がおりました。
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和尚さんは、宗教の功罪の「罪」を次々と挙げ連ねて、宗教をボロクソに否定し始めました。散々議論を交 わした挙句、とうとう弟子が「先生がそんなにおっしゃっても、宗教によって救われる人間がいるかぎり、 やはり私は宗教の役割は重要だと思うし、宗教者の生き方を応援したいです」と結び、宗教懐疑派の弟子が、 講座の終わりには、見事に宗教擁護派に回るという面白い対話を体験しました。「宗教の天井を突いていた らダメ。突き抜けなきゃ」と言う和尚さんに「先生の理屈はわかりますが、あまりに目指すところが高すぎ て、大方の人間はそこまで辿り着けないのではないでしょうか?」と弟子。
弟子は自分なりに真摯に「宗教とは何か?」を考え抜いて挑んだ対話だったと思いますが、現代日本人の多 くは、天皇神道の戦争利用やオウム真理教事件などの影響で宗教アレルギーが強く「宗教的なもの」を避け 続けてきたため、そもそも超えて行く土台がない人がほとんどではないでしょうか。
和尚さん、日本古来のアニミズムなど、何か超えるべき「宗教」の代わりになるものが、日本にはあると思 われますか?和尚さんは楽健法や真言宗に出会った時に、すでにある程度、ご自分なりの信念を身につけて いたのではないでしょうか。そもそも、和尚さんが「魂が行う最高峰の遊び」だと言われる「宗教」の役割 とは、端的に言うと何でしょうか。
個別の人生経験によらずに、楽健法を熱心に深めることによって、このあたりの意識を開花させていくこと は可能でしょうか?楽健法のプロセスの中で「宗教的なもの」の熟成を促す過程が、もうひとつ明確に見えてきません。
古来から、日本人が感じていながら「言葉にしないできた世界」があると思いますが、今の時代、それを意識化して言語化する能力を獲得することが不可欠に なってきた気がするのです。
すでに超えたものを教えることは、面白味のないプロセスかもしれませんが、和尚さんにはこの辺りを、ぜひまた突っ込んで教えてほしいです。
私自身は、宗教者でも、アーティストでもありませんが、何度も高野山合宿や参拝に訪れながら、周りをぐるぐる、いっこうに擦りもしなかった空海上人が、昨 年暮れあたりから、なにやら突然、私の周波数で少しずつ接触できるようになってきたのか、先日いきなりこの言葉にがつんとやられました。
「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く死に死に死に死んで死の終りに冥し」
輪廻転生を、何千回何万回繰り返したところで、生ぬるく生きている私らは、
一体どこから生まれ出て来たのか、死んで一体どこに行くのかすら、さっぱりわからぬまま!!!
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岡本太郎の「芸術は爆発だ!!!」に似た、叩きつけるようなエネルギーの「絶望のすすめ」です。
いつまでも、盲人のまま、無知に甘んじる人間の情けなさに対する叱咤激励。
魂の存在を信じているインド哲学など、空海によれば、第三住心レベルなんだそうですが、 日本人の血なのか、個人の直感なのかわかりませんが、和尚さんの「がらんどう」理論に深く共感していて、 いつしか「魂も『がらんどう』に違いない」という折衷段階です。(私のレベル、丸わかりですね!)
宗教を超えてゆけ!というのメッセージには、まったく違和感を感じず、むしろしっくりきます。
最後はいかなる型も超えて、自分を生きること。
ただ、手垢のついた「アート」という言葉に違和感を覚えます。 「アートの産業化」「アーティストの職業化」が進み、「アートで食べる」ために、自ら病人を演じるような 本末転倒なことまで起きていて、そんなものに成る気はなく、現代でいう「プロフェッショナル」にも違和 感を覚えます。「芸術」という言葉も、仰々しくて好きではありません。
それぞれが、何かの種に生まれ、それぞれに「自分の花咲かせる」という感覚がしっくりきます。
ある作家の「医療と芸術が同義語だと、いつか人類は理解するであろう」という言葉に共感します。
生きることは、常に何らかの摩擦に晒されていて、日々溜まってゆく澱を、小出しにできる短歌や俳句、 そしてそれを交わし合える友も、有難いのです。(楽健法短歌部あります!) 短歌や俳句のような細切れでは、言い尽くせないような油田も抱えているでしょう。
10 代から抱え込んだ深い悲しみの油田を、愚痴や恨み辛みでは発散しきれず、醗酵させて結晶化したもの が、和尚さんの『がらんどうは歌う』でしょう。昇華して吐き出して空っぽになることで、また自由に軽や かに生きてゆける。いい作品を産み出すことも、健康になることも、目的ではないのです。
ただ、自分の歌を歌わずに、自分の踊りを踊らずに、自分の花を咲かせずには、死ねないと言うだけです。
今を生きることは、ぶっつけ本番の即興劇。楽しんで生きましょう!


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