頭の楽健法 

  尾添 伸子
 
 楽健法はフィジカルとメタフィジカルとの関わりを人に自覚させる、ということについて
 
 3カ月ほどかけて10回踏み合いをした方がいます。回を重ねるたびに身体の固さがゆるみ、それに伴い力を抜いて踏めるようになり、同時に、心まで柔らかくなっていかれたようでした。楽健法による心身へのよい効果を目の当たりにし、改めて感激したことでした。
 
「フィジカルを支えているのは崇高さを希求するメタフィジカルな魂が人間に宿っているからです。フィジカルが支えてくれてメタフィジカルは意味をもつ。楽健法はその関わりをひとに自覚させる作用をもつと思っています」とは。
 
楽健法をしていると、どこかで聞いた、こんな言葉を思い起こすことがあります。
「魂は、成長したがっている。魂は、肉体を使って修行することで成長する」
楽健法をしてもらった後は、ヨガをした後の心身ともに清々しくなる感じに似ていると思います。
ヨガを続けていると心身ともに柔らかく、軽くなるように、楽健法を続けていると―踏むほうも踏まれるほうも―、身体が柔らかくなるとともに、心の周りを固 めていた鎧のようなものが解かれて、目と心がしだいに開かれていく。その目と心が向かう先は、光の方向―成長したがる魂が向いたい方向―。そんなイメージ を描きながら、また、そう祈りながら楽健法をしています。
 
宥厳先生の文章の最後にある
「アートはメタフィジカルに支えられたフィジカルなもの」。
これは、言い換えると、
「アートはフィジカルなもの。それはメタフィジカルに支えられていなければならない」
となりしょうか。
私なりに理解したところで言えば、
「アートは“モノ”として在るけれども、それは鍛えられた哲学によって磨かれ、漉されたものでなければ、アートとは呼べない」
ということだと思います。
「芸術とは、魂の雫である」
ということではないかと思います。
「芸術」とは「ほんもの」のこと。つまり、真の“モノ”。
 
 心身ともに柔らかく、軽く、清々しくなれたときの魂は、私たちを取り巻く低次元の価値観―例えばお金や時間に対する欲望など―に眼を曇らされることなく、ものの本質―例えば生命や自然の摂理、また、心の奥底にある本当の自分―を見ようとする。
 楽健法は、「踏む」という物理的な行為で人の身体に働きかけることで、「真理を求める魂」の助けをしている、というのが和尚様の教えではないかと思います。
 
 
2021年2月21日 
尾添 伸子