頭の楽健法

  筧 ミツル

 2021年2月21日
 先日、奈良教室の高橋・トーマス・流美先生からいただいた「初伝指導に関する課題」に答えた私の拙文が概ね、今回の宥厳先生のお話の周辺をなぞっていますので、それに加筆、修正して送ります。


 楽健法の妙味は踏む側にある
 
 四十数年前、楽健法に出会って以来、種々のボディワークをつまみ食いした末に、僕はまた楽健法に帰ってきました。
 楽健法こそ、さまざまな施術が個々に抱える問題、あるいは健康法とかボディワークとかセラピーと呼ばれる数々のアプローチが全体として抱えている矛盾を超えていくものだと確信したからです。
 禅の十牛図さながら、極め切ったものが再び市井に戻ってくるように、、、。(当然ながら、極め切ったものというのは僕ではなく「楽健法」という操法を指すわけですが、、、)
 
 楽健法はスタイルとしては直接法的なアプローチをする操法ですが、同時にそれを超える技法です。
 僕にとって、楽健法は踏むものと踏まれるものが感応しあうダンスのようなものです。
 楽健法は外見上、ギバーとレシーバー(プラクティショナーとクライアント)に分かれており、按摩や指圧、整体などと同じように施術者が患者に施す(サー ビスする)形になっていますが、僕は楽健法をヨガやフェルデンクライスなどのように自分自身にアプローチする技法の延長上にあるもの、と考えて います。(そういう形で操法するものには野口整体があります。)
 楽健法が「二人ヨガ」と名付けられた所以である、と承知しています。
 茶道や花道のように段階として「守破離」という流れがある、とも言えるでしょう。つまり、はじめは厳密に「踏むこと」の技を学び、そしてそれを守 り、深まって独自のアプローチに挑むようになり、最後には「踏む」「踏まれる」の境界を越える、というような流れです。(けれども、楽健法は面白いこと に初めの初めにその離れる境地を味わえる面白い操法でもあると思っています。不器用な足で行う操法であるところにその妙味があるのではないで しょうか。また、そこに魔境として「(あくまでギバーとしての)足技の達人」になっていくという隘路があるようにも感じています。)
 まとめて言えば「ラジオ体操」のように家庭の健康法として、インスタントに効果を期待できるという入口を持ちながら、治療法としても(身体的なア プローチを持つ直接法的な形という意味で)十分に機能し、しかもホリスティックでエナジーワークと同様の全人的な深さもある、それが楽健法の世 界だと思っているのです。
 
 先に書いた「足技の達人」に関してですが、僕個人としては「完璧なギバーにならない」ということが大切ではないか、と考えています。
 長年、教育に携わってきて、痛感し、斬鬼に耐えない思いでいることは「完璧に教えること」を目指して、結局は「自発的に学ぶ人間」ではなく「完璧な生徒」を作っていたという気づきです。
 教育は「自発を促す」という大いなる矛盾です。楽健法にも同様の課題があり、ギバーとレシーバーという分離に、同じような矛盾を感じていま す。もちろん危急の処置として優れた技法を持つことは大切ですが、大所から見て治療的操法は決してその人の全人的な健康に寄与しない、と思うので す。
 僕はせっかく出会った人の人生に寄与したいという思いから、自発のための楽健法を差し上げたい、と思っているのです。
  
 楽健法の真骨頂は「踏む側」になって、初めて経験できるものです。僕にとって、「楽健法を踏む」ことは一つのアート、創造的な作業です。
 もちろんそれは身体的な健康に貢献します。踏む側踏まれる側双方を身体的に健康にし、それを続けることは良好な人間関係や美しい世界を作り出すことに繋がります。
 けれどもそれはあくまで結果であって、目標ではありません。
 楽健法を踏むことは、あくまでただ一心にその場、その瞬間にいることです。その瞬間を十全に生きることです。
 僕にとって楽健法は、自分の世界と正しく関わるためのアプローチの一つなのです。
 
 自分の世界は、まず自分の動きから始まります。
 楽健法で言えば、「踏む」という動きから全てが始まります。
 それは一つの「働きかけ」です。聞き耳をたて、目を見張って、アプローチするのです。
 何かを「変えよう」として働きかけても、返ってくるものは、必ずしも、思い通りのものではありません。むしろ、そうであってこそ、それは自分の世界との「対話」となり、より豊かな次の展開に繋がっていきます。
 どのような反応が返ってくるかで、次の自分の動きが生まれます。そしてまたアプローチします。
 それは丁寧に続けられます。丁寧に正しく関わりが持続すれば、それは必ず豊かな動きになっていきます。深くなり、躍動し、生き生きとしたものになっていきます。
 
 楽健法を踏むことは、暮らしの中で、あらゆる時間の中で行っていることと同じです。
 世界は、こちらからのアプローチを待っているのです。必ず、始まりは「踏む側」(アプローチする側)にあるのです。
 こうして楽健法は生きることのイニシアティブが自分にあることを教えてくれます。
 生きることは「受け取る」ことではなく「働きかける」ことである、と教えてくれます。
 もちろん、働きかけた結果として、望んだものとは違ったとしても、思いもかけなかった豊かなものを「受け取る」ことができるのです。