頭の楽健法

  池田 麻矢


楽健法という身体的アプローチを通して、手では触れられない肉眼では見えない領域にリーチする話題に胸の高鳴りを覚えました。
目に見える世界、見えない世界は繋がっていて明かに影響を及ぼし合ってる。このことを、その洞察を感性感覚の違う人達といかに共有できるか、そして意識と行動を持ってより生きやすい世界を共に創造することにどう活かせるかが私の人生の探究テーマだからです。

これを読み終えた時、「崇高さ」「本当の悲しさ」「美学」「美」と表現されてるイメージの中身や筆者がどういう定義でこの言葉を使っているか聞いてみたい と思った。これらの言葉が表す世界がとても興味深いので、その辺りを共に、より深く探究していけたらどんなに面白いだろうと思うからこその”聞いてみた い”衝動。

「フィジカルが支えてくれてメタフィジカルは意味を持つ。」…ここのフィジカルは「器」としての身体、メタフィジカルはそこに宿る「意識や祈り(精神の方 向性)、魂」を指すのかなという想像が湧きました。自分とは違う意識次元に存在してる(とこちら側が”認識”する)人を踏むことで、互いに感化影響を及ぼ しあい変容する可能性がある。

「踏んであげるは経験させること」…という表現を私ならば、「踏まれることで変容を経験しうる機会(〜メタフィジカルな視力を獲得し増強する機会)を提供すること」、と言い換えるかもしれません。

「いろんな次元の人と楽健法をやっている」は、「日々いろんな意識状態レベルの人と関わっている」、と私が認識している状態 にも相通じると感じます。

”心の目を曇らせない”でいること、”ニュートラルかつ中庸で居続ける”ことを、楽健法を通し人と関わる中で精進することは本望であるし、実は どんなモノコトの経験を通してもそれは可能であると信じています。が、
心身共に癒しおよび覚醒効果をもたらすことのできる「楽健法」という実技を続けることを通して”それ”を実践できる可能性のあることが素晴らしく、そのことが私が楽健法をやり続ける所以であり、多くの人にこれを伝え共有したいという熱源でもあります。

数年前の高野山合宿に参加した際、心身を健康に本来の元気な状態へ戻しながら(導きながら)、人類の意識進化(〜共生浄土実現)に寄与できることを直感。創始者の先生方の存在からもそれが醸し出されてことをその時、受け取りました。

楽健法をやっていると、人の身体という”自然”を通してそれが元気を取り戻していくプロセスを伴走することにおいて ことの”道理を悟り、真理にアプロー チ”していく道上にあるのを感じます。これを差し置いて他に何がある?と言うほどにとても深め甲斐のあること。この話の延長で、「宗教」と「芸術」はとて も近いところにあるもの と芸大生時分から認識しております。至高なる神遊び。まだ外的に守られている感(=縛り)があるのが「宗教」で、その守りすら外 れ 自らの呪縛を除いては完全フリーな領域なのが「芸術」なのではないかというイメージを持っています。だからこそ”創造主として世界にインパクトを与え ている自己”なのだという認識を持てているか否かの差は大きいと思っています。