頭の楽健法

 斉木 圭子

 頭の楽健法って
 考えてみました。
 まずもって頭の「楽健法」とは、まさしく言い得て妙だと感心しました。
 なぜなら、一見フィジカルな身体的所作である楽健法は、その実、とてもメタフィジカルな所作だからです。
 楽健法を初めてした時、皆さんはどう感じましたか
 例えば、大抵は、それまで平坦な地面しか触ったことのない足裏を、柔らかな丸みを帯びた生身の人間の身体に置くだけでも、その全く経験のない感触にドギ マギするし、更には、体重をかけて踏む段になれば”大丈夫かしら、痛くないかしら”と想像力を全開にして相手を思いやる。決して機械的にできるものではな い。

 つまり踏む側の足と踏まれる側のからだの接点から醸し出される、一種の合意――委ねるこころと、それをしっかり受け止めるこころがなければ楽健法は実のところ成立していない。だからちゃんとした充足感が双方に感じられない。
 そのことを思い知ったのは、かつて一日に何人もの人を続けて施術したことがあった。
身体的にはそれ程の疲れはなかったが、頭の疲労が半端でなく、こころここにあらず状態になった。そうなると、相手に寄り添うどころか踏むだけで精一杯。委ねられた相手を受け止められないのなら、踏むという機械的な所作を繰り返すに過ぎない。
 
 楽健法は一対一で筋肉をほぐす、コリをほぐすというフィジカルな所作だが、そこからもっと深い魂ともいうべき内的なところまで踏み込める所作だと思う。
 ”肩も首もこんなに背中全体を固くしているのはなぜだろう” ”なぜ右腕(左腕)だけが丸太棒のように硬いのだろう”と様々な思いを相手に寄せながら 踏む。踏んでも踏んでも取れないシコリが、ある時を境に相手が心を開いてくれた途端、それまで締め付けていたタガが外れたように体全体がフアーと緩ん でくるさまは踏み手にとって忘れられない一瞬になる。
心の深いところで同調できたのかな、これこそが、楽健法がメタフィジカルな世界に移行する瞬間である。
 単に身体的なるものに留まらずに、もう少し広い分野(スピリチャルな方向性も含めて)へ楽健法そのものを敷衍することができるなら、単に”健康法”という範疇に収まらず、踏み足を通して相手のこころを深く知る(直観する)メタフィジックとなりえる。

 楽健法哲学
 楽健法はいつでもどこでも、そして歩くことのできる足さえあれば誰でもできる、易しい健康法であると間口の広さが一番の魅力です。家族、友人、知人はもとより、知らない人とも馬かが合えば簡単にコミュニケーションができるツールでもあります
と同時に、深く楽健法を行うことで、踏み手の魂が浄化され、何人に対しても慈愛の心が芽生えてきます。そうなって初めて楽健法は真の楽健法となるのです。