「生命の源に触れる」
 
       岩堀 純子
 
 「楽健法とは何か」という問いが投げかけられたわけですが、わたしは「楽健法は生命の源に触れること」だと考えています。
 では、生命とはなにか。その生物学的な姿については二重らせん構造のDNAがもつ遺伝子情報のことや、そのタンパク質は特定されたアミノ酸構造をもっているなど、生物学の本や手近なウイキペディアにも書かれていますから、知識として知ることができます。
 
 生命の存在は自然法則に支配されていて、自分のものであり、唯一のものでありながらコントロールすることはできません。これから経験する病気や老い、死について予め知ることもできません。瞬間瞬間で起きていることを全ては理解しないまま流れていきます。
 
 その意味においては人間も他の動物も同様です。しかし人間は自然界にいる他の動物たちと自分たちを区別しようとしてきました。それは心をもつものとして 人間を捉えることでした。心という言葉の範囲は広く、理性や意識、思索、感情、情動などさまざまな意味合いがあり、一個の明確な輪郭はありません。
 
 生命の自然における物理的存在については知ることができるのですが、心の領域まで含めていくと、生命の実体がわからなくなります。しかし、生命を心をもつものとして描くことは経験から難しいことではないだろうと思います。
 
 生命について考えていることを簡単に話しましたが、では楽健法はどのようにして生命にアプローチするのでしょうか。もちろんそれは足、足裏で他者の身体を踏むことによってです。
 楽健法は性行為に似ていると思います。どちらも生命に触れる点では共通です。身体と心にアプローチする試みでもあります。しかし、性行為はそれを起こす 要因や様態や結果がひじょうに複雑で多様です。当事者を天国にも地獄にも連れて行きます。楽健法の最初のテキストの(白い表紙の)、ささめやゆきさんのイ ラストには裸身の男女が描かれています。このことを象徴的に表わしているのではないかと推測しています。
 
 話を楽健法に戻しますが、足で他者の身体を踏む。それは生命ある他者、他者の生命に触れ、交感することです。物理的存在としての生命、心をもつ生命。その生命はつねに動いています。流れています。
 足、足裏はそれに触れるための「言葉」だと言ってもいいのではないでしょうか。つまり、楽健法とは一つの言葉、「らっけんことば」であると言えないでしょうか。