伊禮敦子

『フィジカルとメタフィジカルの視点からみた楽健法とは』
 
東京楽健法研究会水道橋教室
 伊禮敦子(2021年師範取得)
 
 磐余山東光寺発祥の“楽健法”、その創始者山内宥厳住職が、なぜフィジカルとメタフィジカルのことを考えてみよう!と皆に呼びかけたのだろうか、“頭の 楽健法”をしてみようとおっしゃった意味は何か、50年もの長きに亘って一途に普及してこられた結果、人々の“からだとこころ”の両側面で支えあう関係が できる“楽健法”だと確信が持てたからであろうか。未経験者はフィジカルとメタフィジカルの崇高な考え方をもって“楽法”には触れないと私は思う。からだ を通じて、自然に感じる気持ちよさ、一息ため息ついて「ありがとう」と言葉をかけられる優しさ、何でも話せる人間関係の安心感、その居心地のよい空間で 「社会的安全性」を感じることができる。
それによって継続的な実践行動として日常生活の一部に落ち着いていく“楽健法”の理想的な姿があるのではないだろうか。
私は、フィジカルとメタフィジカル、なんていうカッコつけたわざわざ難しく感じるような言葉を使って“楽健法”のことを考えなくてはいけないのか、わから なくなってしまった。ややもすると宗教的哲学的な視点で考えるの?と勘違いしてしまうような言葉の表現に、大きな壁を突き付けられたような気がした。平易 な言葉で伝えてこそ“楽健法”なのではないかと思ったからである。  
まず「メタ」の意味は何かを調べる中で、俯瞰的、形而上学といった言葉に、思考回路が止まりながらも考える時間を持つことができたが、自分の過去のすべての実践的な経験に頼りながら考えるしかないとの思いに至った。
 からだを上手く操って、ハッと度肝を抜く動きを見せるも何事もなかったように平然とした立ち居振る舞いで、人々を沸かせるスポーツが体操競技である、そ れを私は実践してきた。非日常的な動きの連続に息をのんで見入ってしまう経験をした方もあるのではないだろうか。非日常的な動きをいとも簡単に平然とやっ てしまうことにも、フィジカルとメタフィジカルという視点があるのではないかと考えてみた。なぜならば、その非日常的な動きは、ごく普通に平面を歩いて 走って移動することではなく、空中での回転やひねりを加え、しかも様々な器械の上で行うのでとても難しいことである。世界の誰かが新しく開発して平然と やって見せる内容は、表現する本人もその指導者も未知なる世界に一緒に入って探求していくことになる。まさに形がないもの、姿をもたないもの、形をこえた ものを表す(形而上学)ことを体解していく過程に通じるものである。表現者と指導者が動きを絵で表しあったり、ビデオで確認したりの思考を重ね、そこで得 たイメージを直感で表現し、また思考して本質を追求していく繰り返しによって、体解できるのではないだろうか。そこには、メタ認識という「高次の高いとこ ろから見下ろす」、あるいは「広い視野で客観的に俯瞰的にものごとみる」ということが行われていて、未知なる世界から現実の世界に表現者も指導者も導かれ るのだと思う。そこには双方の歓喜、満足、信頼や達成といった人と人をつなげる感情が自然に湧いてくるものと考える。また、そこには観自在、動自在という 柔らかな見方や考え方の引き出しが、自然に身についていくものと感じる。まさに人々の“からだとこころ”の両側面で支えあう関係ができる“楽健法”と同じ ではなかと確信が持てた気がする。