頭 の 楽 健 法

    楽健法の気づき  遠藤 愛子

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 楽健法は、踏んで踏まれて2つがセットになった健康法で、踏まれると気持ちがよく、体がほぐれてそれで循環が良くなり健康になっていく。初めの印象で、おそらくほとんどの人がそう思うことだろう。

 踏むことを続けること5年半。楽健法の全く広まっていない私の住む地域で広めるには時間がかかる。教室も定期的に開催しているが、私の踏むことと踏まれることの割合で言うと、踏むこと : 踏まれること= 98 : 2 ぐらいじゃないかなと思う。
 流石に踏むのは上達してきたように思う。足を置けば、その体がどのような状態にあるかぐらいは読み取れるようになったと思う。

 踏まれる人たちには、いつも私ばっかり大変で申し訳ないと言うことを言われるのだが、踏むことに苦はなく、むしろすごく楽しい。

 体の不調を持って踏まれにきている人達を踏み、踏みながらに相手の体の状態を推測し、見立てを立てる。なぜ、ここの体が硬くなったのか、原因は多様に想 像できる。食べ物、甘いものの取り過ぎ、姿勢の悪さ、運動のし過ぎや体の無理な使い方、ストレス、睡眠不足、内臓の疲れ、、、いろいろ、まるで推理小説を 組み立てるかのように。そして、その見立てを相手に伝えて、答え合わせをしていく。どんどん、エビデンスが揃ってきて、経験が蓄積されていく。

 教室もまた然り、同じように踏むようにと指導してもなかなか踏めない。体幹の使い方、重心、骨盤のひらき、足の位置など、いろいろな要素が幾重にも重なっているにだが、段々と指導を続けていくと、どのように踏んでいるかが立ち姿を見るだけでわかってくる。

 そのような段階にきて、セラピストの合宿に加わった。様々な地域から、様々な指導者の指導をうけて集まってきたセラピストたち。まだまだ、経験が少ない方たちも多い。
 久しぶりに沢山踏まれてみてわかったことがある。自分でも驚くべきことだが、踏まれただけで、相手がどのような立ち位置どのように踏んでいるかが分かっ てしまうのだ。これは自分でも驚いたのだが、踏まれる経験が圧倒的に少ないにも関わらず、踏むことと教えることだけをただひたすらに経験を積んでいても踏 まれる方の経験をカバーできるほどに、良くわかるようになっていたのだ。

 少し昔の話をしようと思う。

 楽健法をまだ踏めないにも関わらず、講習会で初めに学んだことがある。実は私は、楽健法を習う前に、タイのチェンマイにてタイ古式マッサージの勉強をし に留学をしていたことがある。チェンマイ式は、二人でするヨーガと言われていて、マッサージではあるが、自分のヨーガでもあるということを教わった。施術 者の心や体の状態は、すべて相手に伝わるものだから、気持ちよくできる精神状態でなければ、相手を気持ちよくすることができない。すべてバレる。だから、 精神も健康も万全でないときにはするべきではないし、自分を整えることが第一だと。その教えが凄く気に入って、マッサージは相手に施してあげるように見え るが、自分が心地よくなれるように、無理せず気持ちよくできるマッサージということに努めた。

 それが、根底にあるものだから、楽健法もやり方は違うが同じ心持で臨むのが自然だった。楽健法の門をたたいたある日のことである。私は、楽健法に関して は、本で学んだだけの経験しかなく、おそらく初心者の中の初心者、経験者からしたら、全く踏めていなかったと思う。ペアになった方は、楽健法10年ほどの ベテランだった。踏むたびに、その踏み方は違う、その踏み方は嫌いだからやめて、と逐一指導が入った。体は緊張で硬直した。その後、今度は交代し踏まれる 側に回った。私みたいな初心者とあたり、気持ちよく踏まれなかったことに、不満が募ったのかもしれない。その足は、技術はあったのかもしれないが、気持ち よさ、心地よさはなく、早く終わりたいという惰性で踏んでいるのがひしひしと感じられた。

 その日のことは、私に深く刻み込まれた。「いくら技術があっても、気持ちが伴わないと気持ちよくないんだ。」

 この、しょっぱなの大打撃な学びがあったので、教室の指導ではいつも、「一番気持ちよくできる極意、秘訣は、相手に気持ちよくなってほしいなという思いの強さです」と伝えている。

 楽健法を学んで1年が過ぎたとき、その当時、楽健法を上手に踏めるための極意がこれだという結論があった。それは、「自信をもって謙虚に」だ。自信がな いと、不安のある足で踏まれるとその不安が伝わって頼りなく、踏まれる側も不安な気持ちで心をゆだねられない。しかし、謙虚さがないと、どうしても傲りが 足に出てきて、痛みなどが出てきたり、強かったり、なんだか気が置けないのだ。自信があることと、謙虚になることは、相反することだと思うが、その相反す る二つのことが同居して初めて楽健法はうまく踏めるなと、そう思ったのだ。

 楽健法の経験でいうと、まだまだの2年ほどの時に、仕事として楽健法を行うようになった。技術でいうと、まだまだだったと思うが、一つだけ私には自信が あった。この人に、ここを踏んであげたら気持ちいいだろうな、という気持ちだ。踏んでいる間は、自分が踏まれて気持ちよかったところを想像しながら、め ちゃくちゃ気持ちいいだろうなと思いながら踏んでいた。それは、踏む技術は関係なく自信として現れたと思う。そして、謙虚に踏むことは常に意識して、その 自信と謙虚さを両立させることにつながったと思う。


 話はもとに戻る。
 4年ぶりのセラピスト合宿に参加した時のことである。経験もついて、指導を求められることもしばしば。始めのころは、悪いところ教えてくださいと言われ て、気づいたことをお伝えすることを試みたのだ。そうすると、相手は緊張して体が硬くなったり、頑張って踏もうとして力んでしまったり、良くも悪くもなら ないのだ。これは困ったぞと思った。それで、今度は寝たふりをすることにした。するとどうだろう。どうせ寝ているからと思うのだろうか、踏み方が自分本位 になる。あまり相手のことを考えていない踏み方になった時は、強すぎて痛い。あまりに痛いときは、やっぱり言わないと我慢できないので、そこはお伝えし た。しかし、出来るだけ寝ているのが、最善の策だなとだんだんとわかってきたので、とにかく疲れたふりをして寝たふりをすることにした。すると、どうだろ う。踏み方はもちろんのことだが、相手の心の持ち様までが足を伝って手に取るようにわかるようになってしまった。ある意味、性格などもすべて、かなりわか る。面白いほどに。
 宥厳先生も常に踏まれるときは寝ている。毎年初心者の人もやってきて、超がつく楽健法マスターの先生からしたら、寝るよりいい指導はないのだ。これは結論としてまぎれもない事実で、先生のレベルの人からの最高の指導は寝ることなんだなと、ある時しみじみとわかった。


 面白いのは、もう一つある。相手の心が分かるのと同じように、自分の心も良く見て取れる。痛いなとか、もっとこうしてほしいとか、この人頭で踏んでいる なとか、良く見せようと思って踏んでいるなとか、この踏み方何がしたいのかわからない、とか。相手に伝えた方がいいかなとか、まああえて言うこともないか とか。いろいろな思いや気づきが自分の中にあふれていることが分かる。

 楽健法の合宿は、炊事や掃除、衣食住を共にする。その中で、20人も大の大人があつまるのだから、いくら大人といえども年齢も立場も考え方も違ってい て、尊重し合うことも含めていろいろな摩擦が起こる。それらの事象のどんな些細なことにも、集団の中の一人としての自分自身の立場や考え方などが、相手に は伝わっていようといまいと、自分自身の中でかなりはっきりと浮き彫りになる。良くも悪くも、自分のことの、自分の考えの、自分の感情の再発見になる。


 楽健法の合宿も、後半。組み合わせも2回目になる。始めは初心者だった人たちがどんどんと成長して踏み方もうまくなっている。例のごとく、寝たふりをし ていたわけだが、踏まれながらにはじめと比べて「慈愛にみちてきたな」と思った。これは、技術とかではない。慈愛の気持ちが育ったのだ。それは衣食住を共 にした相手だからかもしれないし、そうじゃなく誰に対してもかもしれない。とにかく「慈愛」という言葉がしっくりくる。それが、みんなとっても育っている ように思った。


 合宿を通して、あらためて何を学んだかを振り返ってみると、丸裸になることだなということだ。自信をもって謙虚になるには、「自分」という欲やエゴを取 り除いて、丸裸になること、からっぽになること、手放すことだなと思う。ほんの些細なことにこだわりをもったり、虚勢をはったり、負けず嫌いになったり、 不安になったり、あらゆることはすべて自分の「プライド」であり「欲」であり「エゴ」である。それらをすべて捨てて、ただそこに身を任せて「在る」こと が、何よりも気持ちよく力まず楽健法を素直にやれる方法で、気持ちよく楽健法を受けて時ほぐれる術だなと、今はそう感じている。合宿は、それらをすべて学 ぶことができ、気づくことができ、鍛錬することができる不思議な場である。


 最近、快医学のセミナーに参加しだした。まだ、始めたばかりだから全貌はつかめていないが、あることに気づいた。
快医学は、心地よい快の方へと導くことで、体を良い方向へと導く術ということで、ゆがみをなおしたり、Oリングテストでいろいろとわかったり。誰でも簡単 にでき、効果絶大で、一瞬で体が緩むのを体験するとなんだかこれはすごい技だぞと驚きおののいた。これはいいものだから、みんな学んだらいいのに、と思っ た。

 それと同時に、楽健法と何かが違う、という気づきの誘導になった。快医学は、本当にいい技だと思うのだが、あえていうなら、一方通行な施しである気がしたのだ。
 言い換えると、楽健法は同じく施術しているようにみえて、体へのアプローチよりもはるかに多いのは、心へのアプローチであり、心の相互の成長へのアプローチそのものであるということだ。それが、ガツンとはっきりとしたのだ。
本当に、今更ながら楽健法の「二人ヨーガ」という言葉がまさにそれだと実感した。楽健法は、施術でもなんでもなくて、二人ヨーガであり、相互のコミュニケーションであり、心の成長への修行である。

改めて、楽健法経を聞く機会にめぐりあい、それからその文章をまた読んでみる。

 【楽健法は施無畏です】

楽健法を学び行ずる者
病を癒し人間を癒す
無為を施し慈愛を自覚させる
たとえ病む者といえども
他者を癒さんとして
楽健法を学び行ずれば
自らの病が癒されること必定
他者の救済は自らの救済なり
楽健法を行ずれば
光の人となる

 無為を施す、というのは、僧侶や医者は正しいことを教えて不安感をなくしてあげることが天職としての役割で、不安になるように仕向けないということです。
 たとえ病気になっても、自分を救ってほしいと他人にすがりつくだけでなく、どんな状況におかれていても、楽健法を覚えて困っている人を救うという大きな 気持ちをもって生きる、そのことが自分自身をほんとうに救うことになるのです。脅して恐怖心を植え付けるようなことは、天職にそむく行為なのです。


 最近、チベットの仏教の聖地とでもいうべき、秘密都市シャンバラの本を読んでいる。そこにこういうことが書いてある。
 〈私たち普通の人間と神とでも呼ばれる人との違いは、全くない。違う唯一の点は、時間にも空間にも物にも何らの限定もされていないということだけであ る。つまり、何ものにも束縛されないということだけである。この様ななにものにも縛られない自由無礙の方々のことを“光の子”とか“神の子”とか呼ばれて いる。〉

 楽健法を行ずれば光の人となる、とはこういうことかとうなる。

        頭 の 楽 健 法

      (宥厳和尚からの設問)
フィジカルを支えているのは崇高さを希求するメタフィジカルな魂が人間に宿っているからです。
フィジカルが支えてくれてメタフィジカルは意味を持つ。
楽健法はその関わりをひとに自覚させる作用をもつと思っています。
周囲にいる次元の違う人も踏んであげると変わる部分が見えてきます。
メタフィジカルに余裕を持って容れてあげてください。
踏んであげるは経験させることです。
視力は赤ちゃんの時は母親の顔が見えてるだけ、這うようになると地面と周囲数メートル、
立って歩くようになると空があるんだと、やがて夜空に月や星、そしてまわりに人間がいることも見えてくる。
判断する力がつくとこの世に裏側があって宇宙を感じ視る力がついてきます。
メタフィジカルな視力を獲得出来る人間にも育ちます。
いろんな次元の人と楽健法やっているわけです。かりかりすることはすこしもありません。
自分の視力が曇らなければいいんです。
他人を変えることはまず出来ないのがこの世です。
楽健法で100日連続してあげると他人も視力が向上します。
視力の良い人間が寛容なんですね。
楽健法の実践は仏道もアーユルヴェーダも超えてます。
悲しみをもってる人間が楽健法に出会えば幸せだと思います。
ゼネラルコンセプトの危うさに楽健法やってると気付きますね。
本当の悲しさを知ってるのは美を追求する人間ですね。
美学なき視力ではいけないのです。
本能の奥底に美のわかる神の心と視力があります。
宗教は視力を獲得した魂が行う最高峰の遊びです。
宗教を超えた人がもっと高度の遊び、アートへ歩み出すのですね。
アートはメタフィジカルに支えられたフィジカルなものです。


 改めて、楽健法のすごさと言えば、これら何回も書いてあるように、「踏む」ということを実践し続ければ、気づきがうまれ、それから開放へと向かうということである。何も恐れることはなく、ただ在ることに向かうのみ。踏み続けるのみ。面白い行である。

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