頭の楽健法

  遠藤 愛子


 楽健法とアートについて考えています。頭の楽健法で、皆さんピアノや新体操など自分の培ってきたフィールドに置き換えて考えているのが面白かったので。
 さて、私はアート、特に現代アートの分野にのめり込んだ時期がありますので、アートと楽健法について考えているところです。特に最近の現代アートでは、 メディア、媒体は大変多様になってきていて、紙媒体からどんどん離れて空間やインスタレーション、映像など様々です。コンセプトのみの、ものもあります。

 特に現代アートは、普段人が見ていない視点を目に見える形に提示することに意味があると感じているので、問題提起を形として見せる、気づかせる視点、仕 掛けそういったものが表現となっていると思います。しかし、それらのほとんどが、経済に飲み込まれていて、純粋に表現活動として行っているのか疑問に思わ れる作品、作家。それらに気づいたときに、私はアートに全く興味がなくなってしまいました。そんな中、表現方法はどうでもいいから生き方を提示する、こう やって生きているっていう体当たりで表現していたのが、遠藤一郎で、伝えたいメッセージはシンプルでいい、それを伝えるのに一番の方法をとバスで全国を 回っていました。劇団どくんごもまたしかりで、テントで全国を回ってライブで精いっぱい表現して伝えるという行為と生き方が、それそのものがアートでし た。

 ある作家の表現する方法によって、鑑賞者が気付きを得るなら作品としても大成功だと思うのですが、それでいくと、楽健法は宥厳先生の壮大な表現活動の仕組みのようにも取れます。あえて楽健法をアートの解釈で読み解くと。
 楽健法は、健康法として伝えられていますが、踏んで踏まれての二人で行うコミュニケーションの活動です。さらに、体が踏まれてほぐれていくと、フィジカ ルが緩むことでメタフィジカルにも影響を与えるのです。相手が意図していなくても、楽健法を行うことにより、フィジカルからメタフィジカルが高みの次元へ と昇っていくのです。それが不思議と、意識していなくても起こっていくから面白く、それを続けていくうちに、価値観が受動的考えや行動から能動的考えや行 動へ変化していくのです。
 
 楽健法の踏む行為が、アート活動のように人を変化する媒体であるようにも思えます。楽健法というメディアを使って、社会変革へと導く、そういった仕組み を作った、それ自体が壮大なアート表現だと言えるのではないでしょうか。宥厳先生は、世界に変革の種をまき、ウイルスのように、価値観を変える表現を放っ て、その行く末はどうなるのか。ふと、「1300年持ち歩かれる、なんでもない石」という作品のことを思い出しました。
追記として、書いてみました。

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1300年持ち歩かれた、なんでもない石
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