頭の楽健法 回答

 遠藤 愛子

「頭でする楽健法」

楽健法は、足で全身を踏んで踏まれてをする健康法ですが、創始者である宥厳先生の近くにいると、どうやら踏んで踏まれてのそれだけが楽健法ではないという ことがよくわかります。それを、楽健法を知らない人に、楽健法とはなんぞやとお伝えするには、どうするかと考えてみるとこれが凄く厄介なのです。「楽健法 は生き方です。」というより外ならないのですが、生き方とはなんぞやというと更に説明するのが厄介で、それに挑戦しようというのが頭の楽健法ということで しょうか。

 楽健法は体を踏んで全身の管の循環を良くしていく健康法ですが、体の循環を良くするためには、体だけの問題ではなく体を作る源ともいうべき食も密接に関係 しています。食について考えるときに腸内を良くしていこうと発案されたのが楽健寺天然酵母パンで、天然酵母の発酵とは何たるかを深く知っていくことで食べ 物の本質と、文明や経済の発展と共に便利で簡単なパンができてきて、それが偽物の発酵であることに気づく。

 本来発酵食品であるパンはカビが付きにくく足の 早い食べ物ではないはずなのに、科学の発展と共にできたインスタントイーストで作ったパンは、足の早い食べ物となっています。しかし、それを防ぐために防 腐剤を使ったパンが主流になり、カビの生えないパンよりも、カビの早く生えるパンの方が添加物が入っていない安全なパンだという考えが一般的になってし まっています。しかし、本来のパンは作るのに時間もお金も手間もかかってしまうけれども、きちんと熟成発酵していれば、カビも生えにくく長持ちするもの。 それがいつ、反対になってしまったのか逆転現象が起きている。

 それらを楽健寺天然酵母パンを作って食べるというところから学べるのです。
 それを伝えるため に、文明の批評の表現として楽健寺天然酵母パンを焼き続けるということを、宥厳先生はパンの本のあとがきにも記しています。
 
 楽健法は二人ヨーガとも言われ、踏んで踏まれての両方やる健康法です。初めて楽健法を知る人は、多くの人が足で踏まれて体がほぐれて循環が良くなることで 体が健康になる術であると考えることと思います。しかし、楽健法をやるにつれて、踏まれることもさることながら、踏むこともまた楽健法の重要な要素である ことに気づいていきます。踏まれることを続けると、自分の体のどこが固くてどこに痛みを感じるか内観する力が培われます。毎日踏まれると、体の日々の変化 にも気づいていくことでしょう。また、踏むことも、相手のどのようなところが固いか、どこをどうしたらほぐれるか、自分の足の感覚が鍛えられます。足の感 覚を研ぎ澄まされて日々の変化や、踏む相手によっての体の違いや変化をわかるようになってきます。

 踏んで踏まれての行為をやることが楽健法ではあるのですが、踏まれる側だった人が、人を踏んであげたいという心の変化が楽健法を続けてくると起こってきま す。これは、本当に自覚がある人も無い人もいると思いますが、健康になるために何が必要かなと考えると、「踏んであげるよ」っていう変化が必要なのだとす ごくよくわかります。この何気ないことなのですが、踏まれる側から踏む側になること、この気持ちの持ち様の変化が天地がひっくり返るほどの革命ともいえる 変化なのです。人からどうにかやってもらおうという考えから、人に何かしてあげようという考えに変わる変化とはそうそうすぐにはできません。でも、不思議 かな、楽健法を続けているとどうしてかそういう変化があるときふと訪れます。

 ここまでの変化を経験してから、宥厳先生の次の言葉が実感としてわかってきます。
「フィジカルを支えているのは崇高さを希求するメタフィジカルな魂が人間に宿っているからです。フィジカルが支えてくれてメタフィジカルは意味を持つ。楽健法はその関わりをひとに自覚させる作用をもつと思っています。」

 フィジカルを肉体的身体的とし、メタフィジカルを感覚ないし経験を超え出た世界を真実在とした普遍的な真実だとすれば、楽健法と体の、踏んでもらいたい踏 んであげたいへの変化がとても見事に関係していることが実感されます。体が肉体的に不調に見舞われて踏んでもらって元気になる。それが続くと、精神もまた エネルギーみなぎってきて、心の変化が起こり踏んであげようという気になってきて、それで踏んであげていると、それでどうやら踏まれていた時よりも、もっ と不思議と体が元気になってくるのです。それは、先ほどの言葉を読んだだけでは全く理解ができないものですが、それがどうしてか楽健法を続けていろんな経 験を経て初めてその言葉がハッとわかってくるので、踏んで踏まれるしかないのです。

 楽健法とは何か、初心者の人にもわかりやすく、踏み方や考え方を教える取扱説明書のようなものを作ろうと思うとさて、どうするのが良いか。踏んでもらっ た人が考える楽健法と、踏み方の練習する人の考える楽健法と、さらにそれから・・・その先にも幾重にも楽健法の世界が広がっているのですが、それぞれの次 元に「楽健法とは」というものがあります。それを、ひとくくりに「楽健法とは」ということは難しいのですが、それでも踏んであげることで少しずつ次の次元 の楽健法が見えてきます。

 では、楽健法はもっと広い物だけが楽健法だろうかというとそうではなく、踏み方を習う、それもまた楽健法なのです。その時のその 必要な部分を経験させることもまた楽健法であると、どれも等しく受け容れることが楽健法であると。

 視力を例にとるならば、赤ちゃんは目の前の母親が見えているけれど、成長するにつれて行動範囲が広がってきて、見える範囲も広がってきます。自分の見える 範囲のことが視力として見えています。可愛い子には旅をさせろというのは、できるだけ視野を広げて経験を広げるということでしょう。行動力がつき、経験を 積むと、判断する力がついてくる。判断する力がついてくると、見えてくる視力がぐっと上がります。

 楽健法の経験からちょっと例に挙げてみます。楽健法でいろんな人を踏んでいると、いろんな体に出合います。体の不調をもって楽健法を受けに来る方も多いの で、体の硬さを足で踏むにつれてその体がどのような要因で固くなっているか、経験から大体の予測がついてきます。

 ある人を踏んだ時のことです、今までにな いぐらいに体ががちがちの鉄板みたいな状態でした。何度踏んでもその状態は改善することなく、どうやらおかしいぞと思ったのです。体は心や性格などとも密 接に関係しているので、踏んでいるその人の性格などもうっすら分かってきます。その体はとても固く、おそらく常に緊張状態で体を固めた状態でいるに違いな いと思った私は、「体だけの問題じゃない気がするのですが、24時間ずっと不安にかられていたりしませんか?」と質問してしまいました。すると、「実は離 婚調停中で、ずっと眠れないぐらいにそのことを考えています」との答えが返ってきたのです。この経験は、霊感でもなんでもなくて、純粋に体が見える力、足 の視力が上がったという話です。

 さて、その昔、私が楽健法の本部の門をたたく前に下調べに、インターネットで楽健法を調べてみたことがあります。youtubeで宥厳先生の映像が出てき たのですが、タッチトリートメントという変な儀式をやっている映像でした。楽健法をやりたいので、変な儀式というか手を当てて病気が治るなんてことを言っ ているなんとも胡散くさい映像だったため、楽健法の足で踏む技術は学びたいけど、こんなスピリチュアルぽいことを教えられるなら嫌だなと思って、行くのを ためらった時期があります。

 その後結局楽健法本部に足を運び、それから、ずっと楽健法を続けていって今に至る私ですが、踏む回数も1,000回をゆうに超 えたことでしょう。一日3回踏んで踏まれてを、一週間連続でやるなんてことも経験するようになった時に、その連続して踏み続けるをこと続けたら、足の物理 的な体温がずっと高い状態になっていることに気づくようになりました。

 それから、どんどんとその気づきは高まっていくのですが、どうやら、温度だけでな く、変な「気」が出ているということも実感するようになります。これは私もそうですし、踏まれている人がとにかく、カイロを当ててもらっているみたいだ と、口々に言われるので、どうやら自分の勘違いではないらしいということも自覚していきます。足からも手からも、エネルギーが暴発し、癒しの手なんて言わ れることもあるほどです。胡散くさいと思っていた私が、胡散くさい手からパワーがなんて言っているんですから、言葉で説明しようにも、どうにも胡散くさい ことは重々承知です。ただ、自分の経験としては、フィジカルだけでなく、メタフィジカル感覚的にしか感じ取れない何かが感じ取れるように成長してきたので はないかという実感がでてきたという事実です。

 楽健法とは何かと、宥厳先生が直接的に教えるということはあるようで実は少ないのですが、先生がいろいろな活動をしていて、弟子の私たちに見せているもの がいくつかあります。それの一つが一人芝居「がらんどうは歌う」です。「がらんどうは歌う」は戦時中の宥厳先生をフィクションともノンフィクションともいえな い形で展開していくのですが、その中に学ぶべきいろいろな要素がちりばめられています。

 冒頭では、人間は自意識をもったあたりから人間として扱われるとい う一節があります、さて何をして人間と呼べるのかと。それから、極限になった時に浮き彫りになる人の様相などを私の説明では稚拙で表しきれませんが、表現 しています。そして、私が特にこの芝居で心に残ったのが、がらんどうでエンプティでからっぽで、そういった何もない原野こそが、自由で、すべてが「ある」 というメッセージです。

 人間は生まれてからずっと人間社会の中に生きているので、どうしてもそれら社会の制度や規則などの内側にいるけれども、それらの内 側にいることなく、それらから解放されて自由になることができるということや、それは自分で獲得できるということを教えてくれています。そういったことを 考える発端になるような起爆剤になるような芝居であるなと感じています。

 自由であるためには、どうすればいいのか。人から与えられるのではなく、自分で考えて獲得していくこと。体で経験して実践して獲得していくことです。「考 える」ということを、忘れてしまった私たちは、答えを与えられることを望みます。正解を求めます。しかし正解はなくて、自分でわかることだということが、 宥厳先生のお考えだとしたら、楽健法は教えることはできず、経験させることでしかないということになります。

 天然酵母パンを作ることも楽健法の中の一つと 言えますが、天然酵母パンを作るには、菌は生き物なので、常に息をしていて、湿度気温などその時でいつでも同じことがありません。その臨機応変に対応し、 自分で考えていくという修行のような鍛錬のようなことを、パンを作ることによって知らず知らずに実践させられているのです。

 踏んで踏まれても、常に相手あ りきでいつも同じ体は一つもなく、常に違う相手に対峙している間にその時々にの変化を感知し察知して考えていく力が身についていきます。マニュアル通りの ことはないので、マニュアルが無くても大丈夫な人に育っていくという仕組みです。

 仏教も、アーユルヴェーダもとっても素晴らしい教えと知恵とを人々にもた らしていると思いますが、それはあくまでも教えであり万人に有効であったとしても、すべて与えられるものです。しかし、獲得するものが楽健法であるなら ば、教えることは何もなく、生き方こそが楽健法なのです。

 そうやって、実践を積み重ねていくうちにいろいろな考えを自分で獲得できるようになり様々な視点でものを見れるようになります。社会の嘘にも気づくように なってきます。「視力」が高まると、崇高な思想の旅へと旅立てるというわけで、思想の遊びが宗教ならば、思考から表現へと旅するのがアートだということで す。

 表現することは、簡単なようで難しいのですが、言葉にするということもまた表現の一つ。宥厳先生が近年よく、短歌を詠めと言います。楽健法をやってい る方の中には、和尚さんの年寄りの道楽が始まったなどと思う方もいるかもしれませんが、思考の旅で遊んでこそ、表現できるようになり、また表現しようとす るからこそ、物を見る目が育っていく。

 常に見て経験しての相互の踏んで踏まれて、相互の活動がセットになってこそ、フィジカルもメタフィジカルも鍛えられ どんどん上の次元に成長していけるということ。もちろん、体は心と密接に関係していて、心のつまりを取るために、自分の考えや思いを外に吐き出すことでつ まりを取ろうという、心の管のつまりもとるという役割も短歌を書くことは同時に抱えているのかもしれません。それにさらに言霊や、数霊というように、言葉 や、数(五、七、五、七)などにもエネルギーがあるということも、要素の一つとして入っているかもしれませんが。宥厳先生の次元は高すぎて私にもはかり知 れません。

 体のつまりが取れて、心のつまりも取れると、自由に動けるようになり、思考もどんどん遊びの世界へ広がっていきます。思考で遊んでは、それを見える形に表 現してみようという、その相互の行ったり来たりを、楽健法を通して遊んでいくことが楽しく健康でいる術ではないでしょうか。

 宥厳先生から学ぶべきことはこういうことかと今の段階では思っています。教えらることではなく、獲得すること、どういう生き方をしていくかということが楽健法。

 教えてもらおうという意識で臨んでは、先生は何も教えてくれないという不満も出てくるかもしれませんね。それもまた楽健法だとするならば、楽健法も宥厳先生も、学ぶ人によって全く違って見えてしまっているのでしょう。
だから、楽健法とは何ぞやというと、一言では言えませんね。
 
 頭の楽健法 ということで、楽健法についていろいろと考えてみましたが、そもそも楽健法は二人ヨーガ楽健法。自由でがらんどうこそ楽健法で、自分で獲得して こそのものですから、ここに記したことは、「私の経験」と「私の思考能力」と「私の言語の表現力」の枠の内側の楽健法でしかありません。

 私にもっと経験 と、語彙力があればなーと思いますが、本が嫌いで漫画ばっかり読んでいた私にはこれでも十分頑張ったのではと思います。さて、二人ヨーガというからには、 踏んで踏まれてが必要です。この文章を読んで、気づきがあるもよし、納得するもよし、異論反論反発するもよし、それぞれの考えが楽健法で、少しでも私の文 章で楽健法に関する考えが深まるように、踏んでいく必要があります。他の人が読んでまた考えや思いを書いていくことで、どんどん頭の楽健法の次元が上がっ ていくのかなと思います。
 
(宥厳先生の遊びの挑戦状と思って、勢いで書き上げました!後で読んだら恥ずかしいかも。)