宗像神社入り口宗 像 神 社



宗像神社竣功祭のページ

宗像神社の創建は古く、天武天皇の時代(西暦672〜685)に、当時天皇に仕えていた筑前(現福岡県)の胸肩(むなかた)徳善なる者の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)が召されて妃となり、当神社の創建者である、高市皇子(たけちのみこ)をお生みになった。皇子の創建後、当神社は南北朝時代、社人高階義岑が弟、玉井入道西阿と共に南朝に味方して赤尾城・鳥見城に拠り興国2年7月3日、敵将渡辺源四朗と合戦した際、鳥見山中腹にあった、宗像神社は兵火で焼失し山麓に小祠だけとなり、神域は奈良興福寺の支配下となり、春日神社(祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)比売神(ひめがみ))と若宮神社(祭神:天押雲根命(あめのおしくもねのみこと))を勧請して、宗像神社も春日神社と称するようになった。その後、正平9年高階忠正は神霊を自邸に移し中島弁才天と称した。こうして多紀理毘売命(たぎりびめ)市寸嶋(いちきしま)比売命・田寸津(たぎつ)比売命の3神は、3箇所に祀り継がれていった。嘉永7年当地を訪れた国学者鈴木重胤は、玉井家の庭園に祀られていた中島弁才天を知り、中島弁才天の中島は宗像中津島のなまりで、弁財は神仏習合に女神宗像神の事であると考え、宗像社再興に尽力し、安政6年宗像大社より神霊を迎え万延元年社殿が完成した。その後明治8年春日神社の社号を廃して宗像神社とした。明治21年社殿を更に改築して、初めて現在のごとく宗像の神を中央の位置とした。末社として、六社神社(祭神:伊邪那岐命・天照皇大神・月世見命・伊邪那美命・素盞鳴尊命・大己貴命)琴平神社(祭神:崇徳天皇)宮谷神社がある。宮谷神社は、俗に鬼子母神(きしぼじん)社と称されるが、区民からは子供神社の名で親しまれている。子供神社は現在、御神木である大きな楠の木と共に、宗像会館に隣接して祀られている。

宗像三神と宗像大社について!!
宗像三神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子であることは知られていますが、どのようにしてお生まれになったのか、「山路麻芸著 真秀大和国原伝承(まほのやまとくにでんしょう)」よりの抜粋をまじえて、ご紹介いたします。天照大神の弟神である建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)は、父神の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)から「あなたは海原を治めなさい」とご命令されたにもかかわらず、亡き母神の伊邪那美神(いざなみのかみ)の住む地底の国へ行きたいと泣き明かし、伊邪那岐神は大変お怒りになって、須佐之男命を追い払われました。そこで須佐之男命は高天の原を治めておられた天照大神に会うために天上へ上られました。天照大神は須佐之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)を三つに折り天の眞名井(あまのまない)で洗い清めました。それを噛んで吐き出す息吹の霧の中に多紀理比売命・市寸島比売命・多岐津比売命の三神が誕生されたと言われています。ここに記した天の眞名井は天の安河という河の中にある井戸で、その安河は、桜井市芝のあたりを流れている河ではないかとも言われています。
当社のように、『宗像神社』と称する社が全国に10社を数え、宗像大神を奉斎する神社は、全国に6千余の多くを数えます。福岡県の宗像大社はその総本宮にあたります。宗像大社に奉斎される宗像三神は、天照大神が天孫降臨に先立ち宗像三神に対して下された「歴代の天皇を助け奉り、歴代の天皇からお祭りをうけられよ」との御神勅により、現在の地に鎮座されました。九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真中にある沖ノ島に沖津宮、海辺近くの大島に中津宮、陸地の田島に辺津宮があり、この三宮を総称して宗像大社と呼ばれています。それぞれ、多紀理比売命、多岐津比売命、市寸島比売命が祀られています。三神が祀られるこの地は、対内的にも対外的にも重要な位置で、建国当初のきわめて重要な時期にこの地に三神が降られたことは、なみなみならぬ意義があったことがうかがえます。また、宗像三神のまたの名を「道主貴(みちぬしのむち)」と言い、「貴」とは神々に対する最高、最貴の尊称で、道主貴とは国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神様という意味です。皇室の御崇敬が深く、国家と皇室の守護神として朝廷直々のまつりが行われ、その祭祀信仰が今日まで脈々と生き続いているのです。

拝   殿 ご覧の様に、歴史ある宗像神社ですが老朽化が激しく、このままでは、神社存続の危機に係わるということで、外山区では、宗像神社造営委員会を発足し、神社の御造営に取り組みました。宗像神社御造営 三   社
宗像神社拝殿拝殿 宗像神社拝殿奥の三社本殿
六   社 琴平社 子供神社
宗像神社境内六社六社 宗像神社境内琴平社琴平社 鬼子母神社