磯城嶋の故地について  欽明天皇磯城嶋金刺宮跡碑

       磯城嶋の故地について

  桜井市に合併された旧、城島村は、日本書
 紀に謂う、倭国の磯城郡の磯城嶋 の地であ
 ります。欽明天皇の磯城嶋金刺宮があったの
 もこの地であります。村名は既に喪われまし
 たが、今、税務課の土地台帳には"しきしま"
 の小字名が漸く伝えられております。
 "敷島"は日本総国の枕詞でもあり、日本の
 古名でもあります。佛法が、始めて日本に
 正式伝来したのもこの地であります。
  敷島の道とは、古来、詩歌文芸の道と同義
 語でありました。
 日本の名に冠せられる地名であり日本を表
 わす地名であり、仏法公伝の地であり、詩歌
 文芸の同義の名であるこのゆゆしい地名がい
 つか喪われて了うのは惜しみても余りあるこ
 とであります。いわばこの地は、日本文化の
 原点とも言うべき地なのであります。
  この日本にとって、日本人にとって、日本
 の文化にとってかけがえの無い大切な地名が
 あまり人に知られる事も無く、何時とは無く
 亡んでゆこうとしているのです。
  私たちの住む桜井の地に、一町八反歩ばかり
 そんな農地があることを皆さんに知っていて
 欲しいのであります。


    昭和五十四年
        桜井市教育委員会
            社会教育課長
              米田 一郎 記

欽明天皇磯城嶋金刺宮跡碑(きんめいてんのうしきしまのかなさしのみやあとのひ)

欽明天皇とは、継体天皇(けいたいてんのう)の皇子で6世紀代の大王とされる人物である。古書によれば、初瀬川(はせがわ)粟原川(おおばらがわ)にはさまれた地域を、(シキ)または(磯城嶋(しきしま))(式嶋(しきしま))(敷島(しきしま))(城島(しきしま))などとよばれ、この地を欽明天皇の宮とする、磯城嶋金刺宮がいとなまれたとある。『しきしま』の『しま』とは、宮廷領の一区域を指し示すことから、『しきしま』は日本国を指す言葉になった。すなわち、現在の国号は『日本』であるが、その昔は『しきしま』と呼ばれていたと言うことである。国号の発祥とも言うべき『しきしま』の地である事を示す、『磯城邑傳稱地(しきむらでんしょうのち)』の碑もある。又、この欽明天皇の時代に、仏教が公伝した事から、仏教伝来の地とも言われている。。柿本人麻呂古は、万葉集にて「磯城島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞまさきくありこそ」と歌っている。「日本の大和の国の言葉には、霊力がひそんでいる。祈れば必ず、無事に帰ってくることができる」という意味である。又、古代の市場、『つばいち』があったのもこの地で、当時は国際都市として、大いに繁栄していたと思われる。後に保田與重郎氏は、「都の名が国の称えとなった例はそのさきにもあとにもない。磯城島金刺宮こそ、大倭朝廷の力あふれてなりたった大いなる都だった。」としるされている。現在、『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』の碑・『仏教公伝』の碑・『柿本人麻呂の歌碑』・『磯城邑傳稱地』(しきむらでんしょうのち)の碑が並んで、城嶋公園に建立されている。外山区東町には、『磯城邑傳稱地』の道案内のような石碑がある。何れにせよ、私たちが住んでいるこの外山区城島町が、日本の歴史上大きな意味を持つという事に違いは無い。

欽明天皇磯城嶋金刺宮跡碑

仏教公伝の碑

柿本人麻呂歌碑
欽明天皇金刺宮址の碑 仏教伝来の碑 柿本人麻呂の歌碑

磯城邑傳稱地碑

磯城邑傳稱地碑道案内の碑

しき村伝承の地の碑 しき村伝承の地の碑案内石碑 案内看板

城島公園内石碑