岡 本 彌 太 詩 集

 

詩集写真
高知県文教協会版
この詩集について  山内宥厳 

 底本にした岡本弥太詩集は、高知県文教協会から(昭和38年1963年5月1日)に刊行されたものです。詳しくは後記をごらんください。旧かな遣いのため、印刷屋で作字したものもあり、入力できない漢字がいくつかあります。

 これらの漢字には“”記号をいれe漢字文字鏡から拾っていれましたが、そのどちらにも無いものもあり、それらは作字して入れてあります。

 あきらかな誤字は訂正しています。

 本文の旧漢字は各詩の下段に読みとともに入れてあります。

 この本を私が入手したのは、1973年8月下旬に、詩人、緒方昇さんの自宅を訪問した時に記念にといって下さったので、とても大切にしている詩集です。

 緒方昇さんは魚佛という名前で釣り人としても著名な人で、毎日新聞の記者から、毎日グラフの編集長や論説委員などを歴任した、日本未来派の創刊時からの同人でもあり、私は緒方先生といろいろ関わりがあったりしたので、この詩集とともに、カール・A・メニンジャーの「人間の心」など、貴重な数冊の本をいただいたのでした。

 岡本弥太の娘、岡本瑠香さんとは20代のはじめ頃から面識もあり、同人詩誌「ブラックパン」同人として一緒に詩作活動していた時期もありました。いまも高知でご健在とのことです。

 今日では岡本弥太の名前を知るひともまれであり、入手できない貴重な詩集で、詩の読者には、触れる機会がないと思うので、友人の高峰靖子さんにお願いして入力していただいた。

 高峰靖子さんは戦後間もなく,満州から引き揚げてきて高知で暮すようになり、詩も書いていて、島崎曙海が選者だった高知新聞の詩壇に投稿して何度かとりあげられた時期もあって、岡本弥太のことはよく知っていられた。そうした因縁もあって、この詩集はことに丁寧な入力をやってくださいました。ここに記して感謝いたします。      

 岡本弥太は1942年 昭和 17年に死去しているので、著作権にかんしては問題がないと思いここに掲載させていただきました。誤りや疑問など気づいたことなどありましたら、メールでご一報ください。

◎岡本弥太関連のリンク

 高知県立文学館

参考文献

岡本弥太のことなど 島崎曙海 日本未来派第7号掲載 

 

 

------ 目  次 ------
 
 瀧
 
1 白牡丹図
2 白痴平吉
3 海と母
4 利鎌
5 母の碑
6 雲の彼方
7 急湍
8 落日(母の静物)
9 心境
10 顔
11 瀧(其の壱)
12 瀧(其の弐)
13 瀧(其の参)
14 無明と青葉
15 落書の人物
16 父の寝台-病床篇-
17 修羅の旅商
18 谺
19 剣山(或は無明)
20 潮
21 冬の連祷
22遺伝
23渦
24 帰郷
25鈴
26 皿
27 満潮
28みち
29 雲
30鶏頭
31 桜
32 螢
33 とみこ
34 とみこ(其後)
35 浮世小路
36 徨ふもの
37 山
38 懸崖
39 橋
40 一夢
41 虹(妹へ)
42 白墨の汽車(妹へ)
43 夕栄(妹へ)
44 鉛筆の走書き(妹へ)
45 椎の稚葉(妹へ)
46 屋根裏の夢(妹へ)
47 亀裂(妹へ)
48 カインの一族(妹へ)
49 風
50 光明真言
51 蹄
52 母の詩
53 盾
54 灯と生涯
55 向日葵
56 牙
57 石工
58 十字星
59 不死鳥
60 骨壷
61 嗚咽
62 白斧の秋
63 三稜燈火
64 門
65 秋の燭
66 無題
67 潮(弐)
68 剣の愛
69 鵬
 

 


 山 河
 
70 ネプチューン
71 地獄の星
72 きちがひ
73 童子断唱
74 咳
75 火車
76 一角獣
77 鴉
78 白牡丹図
79 大盤石
80 黎明
81 牛
82 白鯉
83 山上風雨
84 鉄の鷲
85 影
86 生涯
87 青葉
88 カキノタネ
89 うそつきぢいさん
90 鑰
91 鮫人
92 舎利札
93 耽視
94 無頼
95 歯車
96 その妹
97 蜀魂
98 おほばこの花
99 貝族
100 基数
101 荒磯詩篇
102 白い慟哭
103 砂岩海辺
104 杖
105 箍
106 田螺
107 荒磯
108 玲
109 菊の流転
110 剣山詩篇
111 森林帯の群
112 軽唱
113 剣山(続)
114 野猪
115 断詩
116 凍つた大河(二篇)
117 一月の花
118 村落断集
119 沙
120 樹間日誌
121 ある雪山の思出
122 渦
123 枯野日記
124 室戸灘附近
125 白
126 火
127 微塵
128 移転
129 亡娘
130 山荘
131 雨の灯
132 日蝕
133 金堂附近
134 白菊
135 鶩
136 鴨
137 金泥の愁
138 村落断集(続)
139 蛙鴉紀
140 沙
141 俤
142 永日
143 野火
144 暮春
145 蛙螢類
146 稚魚
147 繭
148 篆刻
149 臼と鳥
150 侏羅紀
151 鮮緑悲願
152 卍の歌
153 黒潮
154 黒潮(第二部)
155 黒潮(第三部)
156 幻雪記
157 螺鈿詩抄
158 落英抄
159 落英抄(続)
160 雲の柱
161 真冬(他五篇)
162 笛
 

 

 拾 遺
 
163 無音譜
164 無題
165 燈
166 領分
167 無題
168 無題
169 無題
170 幻の龍
171 山
172 みえぬ法衣
173 杜鵑集
 
 
作品年表
 
年  譜
 
後  記
 

***** 岡本彌太詩集 *****
 
    
 
1  *** 白牡丹図 ***
 
白い牡丹の花を
捧げるもの
剣を差して急ぐもの
 
日の光青くはてなく
このみちを
たれもかへらぬ
 
 
                
 
2  *** 白痴平吉 ***
 
おゝむろん
あさ日に恥を知らざる痴ぼうのことで厶いますれば
平吉は今日の雪風にも
そのたくましきもの突きだして
村々のあざけりの中をどことなくあゆむことで厶います
みそなはす雪の上
永貞童女さんたまりあ
あなたこそ目がしらに涙うかべてこの痴ほうの相をご照らんくださいませう
真実この世に信あるものなしとのたまいますれば
私おもふにかの平吉の
裸のまゝのかくしどころこそ
かく灼とかゞやく最後の一つのものでは厶りまするまいか
 
平吉 けふも菜葉をふところに入れ
女こどものあざけりを
そのかくしどころにあつめてゆるやかに雪の上をあるくことで厶います
あざけるものは
おのれの暗きをかなしみ
ましらのごとく歯をむき自らをあざけるとおもいますれば
私まことはかの人々の業にかなしくなるので厶います
永貞童女まりあ
 
私 かの白雪の山の上あなたの相に焦がれながら
おぞましく狂ひゆくまことの平吉で厶います
 
生の身のありのまゝかくすところなく
天地の涯に
生きて生きてそのまゝ化生の土の象にならふとするふびんなるものに厶いますれば
 
 
                
 
3  *** 海 と 母 ***
 
        鸚鵡含愁思 聰明憶離別 ・・杜甫・・
 
おまへの亡くなつた夫の遺した嬰児を
たれが知らふ
おまへの前にはあらしを含む海があるだけだ
 
汝は
はだしのまゝ風雨に濡れた砂と棘とを踏んできた
そうして護る者のない籐の帽子の嬰児をうだいてゐる
白雲を編んだゆりかごが
その子の無垢の裸を待つてゐることであらふ
篠つく風雨がその子の上衣を編んでゐることであらふ
しかし汝母はその嬰児よりも知らない
その子の眸のなかに
青艶の無垢を信じ
天地の冴ゆるところに円光をかいて飛びゆく一匹の
おさなき白馬を眺めてゐるだけだ
 
おまへは渚で今黒い衣の裾を濡らし
しづかにさけぶ
おゝ曙の釜のそこに焚いた貞節の火よ
そうして風雨となつた穏かな粥の心労の一生よ
 
母性よ
お前のやせた頬は
天地のはてよりくるものよりもつと美しい自らの風雨に濡れてゐるのを知らないか
 
藤いろにうなだれたものを抱擁へて
お前は
いつもあらしの兆す海のそばに彳んでゐる
 
 
                
 
4  *** 利 鎌 ***
 
くらい檜のやみから
あさぼらけの山々越へてくる水車の軋りに
一生を任せてゐるといふのか
母のうちちがへる梭の音にその日その日の朝日を織り
銀いろ風雨を紡いで子らの晴衣にするといふのか
 
おれにはとても
あのあられのようにとんでくる密雨の深山の黒馬の轡はつけられない
おれは
その檜のそこ深く流れる石のたぎちに
生涯を澄ませることはできない
山家の池で
はねあがる大きな鯉の鱗のようなおまへの切なさはわかつても
おれはその白雲にちかい山のくらしのそばに彳むことはできぬのだ
おれは一人の旅人としてあの山々の茅はらの
寂莫に光る
おまへたちの不死の利鎌を眺めてゆくだけだ
 
 
                
 
5  *** 母 の 碑 ***
 
すべての母の逆境は
こぼれてゆく石のおもてに露さへ含んで
かつちりと
天地の創から計数されてあることではないか
その子の十悪のとがも
はればれといまはふるさとの秋の朝日に光り
あさ日はまた
母のむくろのなかにも羽搏き
花崗の愛は風雨に耐へて緻密に生きのこる
 
死ぬるものは
このこぼたるゝ石のおもてに生れ
やがてその石も一握の砂の光となりてかへることであらふ
風はやがて辺土の母の砂をまきあげ
きはみのない愛の虚空だけが誰にも咎められることなく
安らかに眠ることであらふ
 
 
                                     トップにもどる
 
6  *** 雲の彼方 ***
 
私は
みやげの土人形をふところにして
雪の上をとほくあるいてきた
私は
暗い夜のやみの上にとほく燃上るふもとの火をみた
私はその火の上に
子らのさかしい雲母の目の光をみつめた
 
私は雪に濡れて戸をたゝいた
こどもらは一心にうつくしく火を燃やして雪にいぢめられた父の姿をまちうけてゐた
足の折れた食卓のまわりに私は羽のもげた天使の姿をみた
それはあの高い雪の山の雲のあひだに
いつもとびまはつて私を慰めてゐた恩愛の姿であった
 
こどもたちよ
私は火のそばのおまへたちにけふもくらい雪の山のけしきだけもつてかへつたのだ
私はおのゝきながら
皮膚のやうにからだにこほばる旅衣をとつた さうしてふところの土人形を握つた
 
土人形は霏々とふる寒さのなかに私のふところに生きてゐたのだ
私ははるかな雪の山をこすとき
この人形がおとうさんとよんだことを思出した
おとうさん おとうさん
子らはいつも冷い雪や霰の雲の向ふで
あたゝかい父の火を欲してゐるのだ
私はこの子らに報ゆる厘銭をもつてゐない
私の心はいつも漠々とした密雲を隔てゝ子らの顔と対してゐる
 
私はふところから
ものを云ふことのない安ものゝ土人形をとりだした
私ははるかの雪の嶺を
子らのさかしい額の上に感じてゐる
とても及ばない遠方の雲の上に半身をあらはしてゐる恩愛のすがたを
そこで
燦かしい虹のなかに美々しくなつたこの人形をもてあそんでゐるおまへたちの姿を
 
 
               
 
7  ***急 湍 ***
 
ただ岩と岩との畳に咲く
藤と岩つゝじ
それから青光と炎を吐く急湍
 
おれはこの深山に彷徨して
現代の天地の跼をみてゐるだけだ
 
おれは眇のおとこ足の甲虫のよう曲つた嬬にあいさつして
あいつら蛇の鎖を習つてゐる
おれは
沸々と滾る青湍の面に
湧きあがつてくる壮烈な天地人の格闘図を盗見してゐる
 
おれはそれから熊さゝを分ける
ぶとに吸はれる
霰を頭蓋で受ける
おれはあさ日を蝎と等分する
おれは
なべての醜悪と光りなきものに半身を分つ
 
おれは天国と地獄の急湍にかゞむ
 
 
                
 
8  *** 落日(母の静物) ***
 
       其の一
 
その山の路の雲母が
秋のそらに
うねうねとのぼつて光つた
私と白い菊の花を積んだ乳母車が
小さく夕日の上に軋つて行つた
    ・  ・
萩のつゆよりかるく
明るくなつた母が秋のそらに俯いてゐる
そしてこゝに古い籐製の乳母車が捨てられたまゝである
 
泣咽ぶ昔の子は何処へ行つたであらふ
 
       其の二
 
母の下駄はおもい椎で
棕梠のあらい毛の緒をすげてゐた
母の手には
珠数玉が病める音で鳴つてゐた
母は小さい木綿針で
美しい落日の形象を描かれた
 
       其の三
 
不治の病の
ジグザグの線が
母のからだとこゝろに夕日の斑を入れた
でも母は銀の針で
私たちの住める輪を必死で描いた
 
母の額から
夕日がトコロテンのように溶け始めた
とうとう或日一羽の日暮れの鴉が私たちの屋根を占領した
夕日は母をさらつてごみだめの中に落ちた
 
死顔にお白粉を塗る秋よ
 
母は私の手にのこる珠数玉の重さである
しかし母は
まだあの古い釜のそこに
貧しい朝夕をみがきあげたかつたのだ
 
       其の四
 
母は脊髄に病む首に
水晶の珠数をかけてゐた
そして藤の花ある夕日にどことなく小さい乳母車を押してゆかれた
はるか遠方の雲の間に
その子の朱い帽子の房がみへてくる
    ×  ×
母とはそらに舞ふ青い渦のことである
母は
私の生涯の厳に
あをいやはらかい藤の花の眠りを垂れる美しい方である
 
 
                
 
9  *** 心境 ***
 
すはだかに
雪の上にねるかなしみすぎてよ
 
けふきのふ
青きあられのなかほがらかに
 
 
                
 
10  *** 顔 ***
 
たれをもゆるし
また自らを誰にもゆるされる筈のものではない
顔は
天地のあいだのおのれのみ知る光の圓で
たれもそれを咎めることはできない
あるものはあるがまゝで
もへる十悪のとがのなかも一すぢの青い光のみちと信じて
まつすぐにあるいてきたのだ
たれをもゆるしまた
自らをたれにもゆるされる筈のものではない
 
私はあらしの日の山の上
或は野わけのふきすさむ萱はらの中に
一人ゆるやかに暗憺としたものを眺めてゐるおのれの罪のない顔をみる
 
 
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11  *** 瀧 (其の壱) ***
 
日が
あられの密雲を犯し
高山の雪の王座をおしのけるのだ
雪はもうどこの岩のかげにも棲むことはできない
さうして春の日にとけた自らの清さの全重量を
太陽に向つて白鯉のようにはねあげながら
まつさかさまの瀧となり湍となつて
どうどうとおしきつてくるのだ
人の子は
さるのようによぢのぼつて
その雪にのこる石の荒れをきわめる
風雪の後にある自らの罅れたすがたを眺めたいのだ
 
お前と俺と無告の山上の石と
この大きな雪どけの瀧の上に座る
参差とした天地の湛へる色は風雪をすぎてきたもの
どこから二人の胸の藤の花は垂れてゐるか
おれはきらきらと眩しく何も言へない
おれもおまへも青い光の大渦に
くるくると巻かれながら
このとほくの果ての急湍の奇岩の一つに座つてゐるといふだけだ
 
雪のそこからのぼる朝日を
誰が裁くか
たれがおれたちを石の像にし咎めることができるか
おれたちは只瀧を眺め
そのどうどうと流れてゆくはての青い天地を眺める
 
光だけが
草の上から
そらと白鯉のようにはね上る瀧の水から
二人の瞼を咎め滴となつて頬を濡らす
 
 
                
 
12  *** 瀧(其の弍) ***
 
うづまく青い湍におちる
白いたきの焔をちらす秋の風
今ようように
おのれのからだに滲みとほつてきたか
おまへの翼の片羽は
その橡の木にさらされてあるのを眺めるのが痛いか
 
何もおもふな
その秋のしぶきに濡れて彳むおまへの結縁の母子たちさへ
あはれむことをゆるすな
山を越へおちばをくゞり岩を鐫り
滝は今あちこちの岩角を
白い修羅となつて走り激し
おのれとおのれのからだを裂いて
どうどうと
まつさかさまの白い焔を渦にするのだ
おのゝくなおまへよ
 
瀧はおのれ 瀧はおまへ
瀧はあくまで白くかなしく
一点のにごりすらもたない
雨もあられも雪もたゞ一つに合はす天地の白の修羅のしぶき
そこに白い鯉すら寄らない
 
見たか
あらそつてゐる天地の秋のおそろしげな頭蓋を
 
おまへ めらめらともへる
曼荼羅の母子を信ずるな
何ものをもあはれむな
おまへ結縁のあらゆる相を修羅の白い瀧にほゝむれ
 
おまへたゞ一つの鎌をさげて急げよ
白い修羅の底から爛とした日がのぼるのではないか
 
 
               
 
13  *** 瀧(其の参) ***
 
一つの瀧のおとすら越へることは絶対に出来ない
何もかも
喪ひつくした私一つのからだであつても
あの
夢のあいだにもさつさうと岩をこしてゆく夜の瀧の光とはなれない
 
瀧のおとを瀧の石となつて聴くことは出来ない
あのたきのうちには
雲と風との間にのこつてゐる最後の稟性が
いつも厳しく鳴つてゐて
秋のよあけなどそれが短い山の人の夢に
玉のようにころがつてきて暗い一生を責めるらしい
 
たきは
私の夢のあいだにも雪のように
夜のそらからまつさかさまに身を分ち
とても
わたしと一つになれぬ厳とした天地の声を控へてゐるのだ
 
 
               
 
14  *** 無明と青葉 ***
 
目がさめると
瑠璃鳥はかうかうと啼き
おのれの長いおとろへの上につらなるあの山々の暗いほどの青葉なのだ
亡き御母よ
あの茂る山々をこへるあなたのあづさの腰がみへ
あなたのおはす白い雲のいろが
病みほゝけた不孝者の瞼に熱く宿る日だ
 
あなたの一人の子は
ほとけもない暗い青葉の中に寝て
あの滝のおとのうちにおのれの耳を伏せ目をあけてゐる
 
母よ
この人の世の無明のみちに
なぜあの瑠璃鳥はかうかうと眩しくかけり
椎の梢の銀はなぜ耐へがたきまで茂るのか
罪あるものは
大ぞらの一点の鳥とならふとねがふのに
 
 
                
 
15  *** 落書の人物 ***
 
おれの病の夕日のやうに重いころ
おまへたちは破れた障子や襖に落書をした
抂んだ日の出や
かなしさうに口をゆがめた人物をやたらに書いた
 
おれはそれを叱ることはできなかつた
そのゆがんだ日の出や人物があることがおれたちの薄れ日のなかの生活より
ずつと好もしい世界のようにみへたから
おれは長い病の日々にいくらか俺に似てゐる動けないおどけた人物の顔をみてよろこんだ
そいつらは何人も首だけの変なかつかうをして
実に退屈しない人生の一列を作つてゐた
 
憂鬱な障子に西日がさしても
おまへたちは仲々かへつてこなかつた
おまへたちはこの病気のちゝのそばより
青々とした草いきれの中のばつたとなることをよろこんだ
 
落書の人物がどれだけおまへたちの顔を待つたか
ゆがんだ朝日が夕日にかはるまでおれはうごけない紙の上の人物のまゝで
凝つとお前たちのはねる足音に耳を立てゝゐたのだ
 
 
                                     トップにもどる
 
16  *** 父の寝台 -病床篇- ***
 
ルカコヨ レイコヨ
ワシノカラダニハモウ ウララカナ春ノ公園ガナイ
ブランコガナイ
 
ワシハ白イ恩愛ノ鶴ノ羽ヲスボメル
 
ワシハ決シテ自ラヲ美シイキリンダト思ツタコトハナカツタ
ワシハムシロ雨ニヌレナガラ歩イテキタ病メルカバイロノ牛デアルコトヲ
 欲シテヰル
ワシハ動カレナイノデ
サカサマナオ前タチノウツクシイ涎ヲウケ
喘ギナガラ泌々ト反芻スル
 
オ前タチハヤガテ白イソラノ乳ヲモトメ
一人々々ニナル厚イジユウタンノ上ニ泣クノデアラウ
私ハソノ時アタラシイ鶴トナツテオマエタチノカラダヲ
青空カラ包モウト思フヨ
 
光ル体温計ニカゾヘル春ノ公園ノブランコ
私ハ今コノ人生ノ目盛ノ高サヲ知ル
水銀ガ全ク下降スルトキ人ハ何デアツタカヲ始メテ知リツクス事ガ出来ルノダ
モウ遅イ
 
戸外デハ温イハルノ雨ガ降ツテヰルノダサウダ
欠ケタオマエタチ二人ノオ茶碗ニ
アノ光ルアメイロヲウケトツテオクレ
ワシハ暗イ田舎ノ天ニタゝエテキタワシノ愛スベキ思想ヲ
欠ケタ二人ノオ茶碗ニ等分シテヂツト眺メテミタイノダ
 
美シイオブローモフノ雨ニ
ヤガテ空ニナル父ノ寝台ガ濡レルノダサウダ
 
 
                
 
17  *** 修羅の旅商 ***
 
おとろへはどこからきたか
一人の修羅の旅商はあらゆるものゝ因果の結縁を絶たふとしたのに
またきこへてくる東天紅の鋭く胸をほる声だ
 
お父さんよう お父さんよう
 
ゆくさきの旅の山間から
こだましてくるのは
東天紅の声ではなくおのれのみぢめなこどもの声だ
とほい雲のかゝる山々を商の旅でゆくとき
おれはあの硝子のようにどこからか飛んでくる生物の
長く息をつめる啼声にはとても参つてしまふ
あいつこそ美しい夜あけの修羅の手さきだ
 
おれはその東天紅の声のなかに
めらめらと焔へる村をみ
あたまの真珠いろにもへる童をみた
 
おまへらの罅れた茶碗をかち合せる音
ざぶざぶとみじめな洗ひすゝぎの音
喚く母のぐれんの声
あの東天紅の澄んだ喉からきこへ
どうもかうもならない人生の
秋の翼にとつつかまつてゐるおのれの修羅があらはれるのだ
 
おのれひとりのみ生きてゆかふと念ふものに
あの
夜あけの鉛をつげる東天紅ののどは実にたまらない
それが雨や虫などに悩まされて
少しも儲からないみじめな旅であればあるほど
あいつ よあけの修羅のなかから
よけいに清く声をひいて
おとうさんよう おとうさんよう とつゞけて啼くのだから
 
 
                
 
18  *** 谺 ***
 
うちおろす白斧のあとから
かへつてくるものは
たちきつたと思つた人生の無限に巾の広いおもおもしいこだまであつた
いのちのない木のからだから荒凉とした雪のおもさが
私のからだにはねあがつてきた
火のない村の山に喚いてゐる童の鋭い白斧の声が
 
私は斧のあとを眺める
どれだけ朝の光が傷の全面に沁みてゐるか
私の顔の肉がどれだけ削げたか
私はまた斧のあらあらしさのなかに油汗のからだを沈める
 
そこの無い未来はうちおろす斧のさきから
鉛の白焔となつて責めるのだが
 
 
               
 
19  *** 剣山(或は無明) ***
 
よろづのことみなもてそらごとたわこと
まことあることなし
 
唱へてあるく三稜層雲のなか
 
時雨の向ふから
かうかうと朝日が霽れてきた
小さいけだもののとほるみちが雲のとぶ笹はらのなかにあつて
どこもむらさき水晶のように極まり
私一人の情痴のどくろが無明剣七千尺の中はらをあるく
わらぢがきれて血が滲む
小さい片板岩のようなものでも高い山のひとりは心につまづかぬものはない
 
どこも
 
つらなる嶺々のみへる晴天なればこそ
世の涯の一人のあなたの上に心は重く霰が降つて
風のある透明な笹はらのなかに
無明のおのれの痛みはよろめいて現はれる
 
よろづのことみなもてそらごとたわこと
まことあることなし
まことか
あしたの大きな白堊紀砂岩の上にながれてゐる獄の光よ
 
あなたは
いまあの白い雲の波に物凄く巻かれて何もみへない
小さい人の世の情痴をかるがるとくわへて
とんでゆく山鳥のすがたもぢきつぎの雲になつてしまふ
波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶
 
夜明けのはかない夢のなかに
私のすがたの刺繍は編み終へたか
とても私には愛しきれない大きな人の世の雲のかたちが私を惹きつけ
あなたのところへ
ふたゝびかへらないねがひが
またして日をのむ山のしぐれの中から降りてくるのだ
 
よろづのことみなもて空ごとたわこと
まことあることなし
 
無明のみちの
うねつてゆく大きな剣の山のなかはらに
限りない三稜層雲は
私一人の胸を圧し雪さへおちて暗くなるやうだ
 
 
                
 
20  *** 潮 ***
 
潮はあれて天へ噴きあげる
 
おのれは一つの大きな盤石となり
泣きわめくこどもを
北風にとがれてうららかな日没の上に差上る
海の果てまで
この子をつれてあるき
囚はれのそらの涯まで見極めたいが
石をさく日が
あの水晶の寒風のなかに獅子のように迫ってゐることを思へば
どうすることもならない
 
汐はあれて天へふきあげるし
われとこどもの立つ巨大な石は序々として罅れてくる
 
 
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21  *** 冬の連祷 ***
 
浪は氷壁のように圧してくる
あられは私の頬をおとす
どこも
一列の氷柱のように私の眼をはねかへす
断雲は
おまへの敗れた胸を裂いて雪を塗りこめてゆく
海のはてから
かへつてくるものは波濤の谺でない
おまへのきれようとする胸の弦の痛みだ
    ×
利刄の人の世のいたみ
まともにうけて
波の断氷をちらすふるさとの岩礁に
ぢつと歯をかみしめておる
孤空の晶をおのれの衰へた臍の上にだきしめて
人知らぬ島の万里の波濤を
おのれの氷の甲胃のようにまとつてゐる
 
かへるな何ものをもおのれにかへるな
今日はたゞ一つのかぶら矢を保つのみだ
ことばは
冬の雨のように空しい
人はあの砂洲のかたちしてゐる
あの一つの海鳥のゆくえをすらたれも知らないではないか
    ×
波はゆるやかに大きくよせて
激発する
水晶のような人の世のはての切に                
たゝきつけてゐる寒さを凝つとまたなければならぬ一生だ
 
いまにみよ
全てあるものは
ふるさとの断氷のような浪にたゝかれてゐる乱立の岩礁と私だ
 

      がけ

 
 
               
 
22  *** 遺 伝 ***
 
       壱
山は雪か
あられか
 
きちがいの遺伝あはれ囚はれて
天にのぼられず
水晶のような雲はその山々をかこみ
いたずらに
父のあてのない遺伝の快癒をまつ貧しいとみこのうち
 
       弐
とみこ
さむいかふるへてゐるか
でんとう線を切られた暗いうちできちがいの父は凄くわめいてゐるか
どうすることも知らない人の世の大きな冷たい月のかげが
こゝにもとかげのように光つてゐる
三千世界
たつた一人で
おまへの幼く白い胸がまもらねばならぬのろはれの愛の血すぢの影が
 
       参
おまへにもらつた椎の実をいりながら思ふ
おまへの
狂つてゐる血統にもこんなに爆ぜる白い実のあることを
 
椎の実の静かにはぜる音におまへの圓らな黒い眼を想ふ
雪のなかにおまへは震へながら眠つてしまつたか
火はうづくまる亡母のように燃へてゐるか
 
 
                
 
23  *** 渦 ***
 
日ぐらしは
その人たちの口をとぢ
黄金いろの向日葵はみづの流れをさへ黙らせる
 
その人たちは
一つの岩かどをまわる
そうして
満々とたゝへたうづのところにくれてくる広大なものを待つてゐる
 
 
                
 
24  *** 帰 郷 ***
 
葉桜が
深いかげをなしてきた
きらきらと光る母の海のそばへかへらふと思ふ
 
小さな
いとなみの人たちの間に
かゝつてゐる虹は信じなくとも
私一人の
たかくなつてきたあばらを暫く裸で眺めて来うと思ふ
 
 
                
 
25  *** 鈴 ***
 
大きな河と山とを
まへにして木きれのように立つてゐた
とほく渡つてくるすべての山嵐をきいてゐると
そのなかに小さい鈴のようなおまへたちの声もまじつてゐた
 
その鈴の鳴るところへかへらふ
五月
一文なしの晴れやかな胸をときめかしてまた旅のみちをあるき始めた
 
 
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26  *** 皿 ***
 
かげた皿を野天のもとにならべ
 
山から
はるばると海をみにきたこどもたちをもてなしてゐる
 
 
               
 
27  *** 満 潮 ***
 
ゆたかな満潮の
あちらとこちらにたゝへたあさ日のなかだ
広々しい潮のようなこの身のはての流れは
どこにあらふとも岸も知らないではないか
こどもたちの
幼いあゆみのかたはらだけに添ひ
けふも紅深くあるいてゐる
 
 
                
 
28  *** み ち ***
 
みちは
はるかの海の上
あるかれず
乏しい潮の光のこちらにけふも暮れてゐる
 
 
                
 
29  *** 雲 ***
 
とほくの峠から
あいさつした母のようになつかしい瑠璃雲である
 
あのこと
あの人たちとの間
虹さへ帯びて美しくたゝへてゐる
 
 
                
 
30  *** 鶏 頭 ***
 
くづれかゝつた父の家の柱を信じて
庭のけいとうの花を
かはらない母の姿のように眺めてゐる子
よごれたモスの紅いきものの丈が
あんなになつたか
夕日を清らかにはねあげるおまへの姿にうたれてしまつた
 
 
                                      トップにもどる
 
31  *** 桜 ***
 
おたつしやでゐて下さい
 
そんな風にしか云へないことばが
さくらの花のちるみちの
親しい人たちと私との間にあつた
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や涙がわいてきた
 
私は
いまその日の深閑と照るさくらの花のちる岐路に立つてゐる
 
おたつしやでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる
 
 
               
 
32  *** 螢 ***
 
       壱
 
山はたかく雲を限つてゐた
 
くらくなると
小さい螢の火を子のためにいとしがつて
のきにかごをつるし添乳する母であつた
そのはかない胸のともし火は
かすかに草の間の螢のように光つてゐるだけとは知らず
やがてよあけの短い夢のあいだに子と二人安らかないびきを立てゝゐた
山はたかく雲を限りその母の螢もとこしへの夜明に消へてしまつた
 
       弍
 
その子はある夜の夢のなかで
山をこへて遠くとんでゆく一匹の大きな螢をみた
こどもはその螢をつかまへようとした
ほたるは雨がふつてゐるのに消へもせず
夢のなかの高い山をこへて愈々美しくきらめいてゐた
お母さん お母さん
こどもは泣きながら目をさました
螢も雨もない秋の
よあけの明星が山の風のなかにまだきらめいてゐた
 
ほたるのないこばんの夢を
こどもはそれからみるようになつた
 
       参
 
こどもはその母の螢の夢を
のきばにつるして大きくなつた
さうして父となり
その子のために螢の火を山の闇からさがしてきた
はかない愛の燐光はこばんのなかで夜毎に明滅し
よあけは相かはらず
雲をかぎる山が明星のあとから現はれてゐた
 
 
               
 
33  *** と み こ ***
 
きちがいのこわれた山のうちのとみこ
みぞれがいつもふつてゐるような暗いかほのかしこいとみこ
たれがなぜ
おまへのこわれたうちの一つのでんとうせんまできらなければならないか
気がくるつてわめくちゝのそばで
おまへは
あらくれの工夫の手にすがつて
きらずにおいてくれと
小さいあかぎれの手で拝んださうではないか
おまへのいじけたゐでんのすがたのうしろには
いつもかまのような月だけが光つてゐるのに
なぜ
山のくらい時雨風といつしよに
きちがいの火のないうちがそのまゝ天へせりのぼることができないか
 
重い柴を小さい肩に負はされて
あかぎれの母とくらいうちにかへるとみこ
おまへのくれた椎の実は虫だらけであつたが
 
 
                
 
34  *** とみこ(其後) ***
 
くさのなかに
たゝいてゐる雨のおとにとみこは弱つたまなこをあけた
きちがいのちゝもたれもその朝すがたをみせず
とみこのまくらもとに
大きな山ざくらがおかれてあつて
しきりに花びらがちつてゐた
とみこは
よあけのゆめのなかで
このさくらが天にさいてゐるのをみた
そのなかに
亡い母のすがたがにこにことわらつてみへた
 
このこわれた
とみこのうちからさくらの圓光が
どこへのぼつてゆけるだらふ
つめたくなつたとみこの頬に
まだなみだがあたゝかいのにきちがいのちゝは
夜叉のようにまた喚きはじめた
 
 
                
 
35  *** 浮世小路 ***
 
おろかな人たちの間に住んで
おろかな朝夕の光が
そらの日の光よりどれだけか強いものであることを知つた
じぶんたちは
たわけたことをあらそひながら
あしたの天気のことを心配しあつたり
おたがいの蟲だらけのこどもをほめあふもののなかにあつた
こゝの暗い小路から
自分たちの屍がかつぎだされてゆくまで
あの
そらの光が安らかであることを信じない暗い人たちの朝夕を愛してゐる
 
 
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36  *** 徨ふもの ***
 
雪のなか
琴をひきて
おのれのこどもの歌を売るものあり
 
 
                
 
37  *** 山 ***
 
はるを短く
こどもたちの花の袖のうちらにみて
花のとなりに住む人たちである
そんな人たちは
山の暗がりのなかにお互のこどものつむりを撫で
乏しい夕餉の皿をわけてゐた
私は
そんな人だちのなかに暗くならないで
かへつて日中の滝のようにほとばしつて
汚いものを医してくれるものを知つてゐた
私たちはたいてい会つても
あいさつを交さず
その人が長らく住みなれた山をこへてしまつてから
俄に
日の光のやうに惜くあついものがこみあげてくるのを感じた
 
 
                
 
38  *** 懸 崖 ***
 
最近妻を亡くしたその若い友人の画家は
はるの日の
あらうみの懸崖で一人一心に美しい海のけしきをかいてゐた
私はその友人が
あたゝかさうな丹のいろや澄んだ波斯青を使つて
海とそらのけしきを染めあげてゆくきもちにぢんとうたれてしまつた
画家はあきらかに
亡い妻の像をその光るあぶら絵具でつゝんでゐるのだ
人のみちとは何か
このころ何もわからなくなつてゐる私に
その絵は
あたゝかい日の光のはてからくる大きな瑠璃いろの信仰をしめした
 
私は
生涯の一つの高みから
その友人の日に焦げた華奢な指が描いてゆく
はるの浪ある切ない一人の愛の風景を眺めつゞけた
 
 
                
 
39  *** 橋 ***
 
おまへたちの家はない
おまへたちは広い雨のなかに迫る夕ぐれに追はれてゐる
おまへたちは一人のめくらの母につれられて
どこの雲のもとへ迷ふてゆくのだ
おまへたちは今一つの田舎の橋をわたつてゐる
おまへたちはその水の光のはての限りなく暗いことを知らない
 
よろめく闇の母のかたちと足音を玉のように信じて
おまへたちはその暗い雨の橋をわたつてゆく
 
 
               
 
40  *** 一 夢 ***
 
酒に
とぼけて酔ひしれてゐる短いふるさとの花の春の日があつた
あぢけないよあけの夢のなかで
山のさくらの静かにちつてゐることを
とほくから眺めてゐた
ゆふべの
とぼけた酒のあいだに
おのれのこどもと雀の歌をうたつたように思つたが
あれも侘しい一夢であつたのか
夢のさめたまくらもとの
こわれた茶瓶の水は水晶のようにあぢけなくおいしいものであり
とぼけた父の眼がしらに何か世のはてからの涙がきてゐた
 
 
                                      トップにもどる
 
41  *** 虹 (妹へ) ***
 
       (壱)
 
梅雨ばれのあとの圓い虹となつた
おゝかたは
このようにきらめきまた雨にしづむ間であらふ
何も云はぬ
波のうつところへかへつてこい
どの山も
けふは夕べの虹のもとに重くうなだれてゐるようで
私には堪らないのだ
知らないところで
三人の子かゝへ喘息もつてゐるおまへは
並たいていのことではあるまい
かへつてくるなら早くかへつてこい
山に消へかゝつてゐる種々のことで私の胸もきらきらと悲しういつぱいだ
 
 
               
 
42  *** 白墨の汽車(妹へ) ***
 
       (弐)
 
くらいつゆのふるさと
私は分散したおまへたちにおくるなけなしの金をかぞへてゐる
目をつむると
おまへたちの落ちてゆく旅の列車がきれきれにみゆる
不思議に
どれもあの山の小学校の黒板におまへたちと楽書をした白墨のまづい汽車のように
たわむれのような運命の軌道をかくものはその黒板からはじまつたのではないか
 
白墨の汽車にのつてどこへおまへたちは急ぐのか
 
 
               
 
43  *** 夕 栄(妹へ) ***
 
       (参)
 
なぢまないまちの音といろのなか
いまさら
とほいふるさとの一つの音といろとを思ひ泛べるのだらふ
三人の西東知らぬこどもをつれた
母ゆづりの重い喘息のおまへが
肩を細くして米を買ひにゆくうしろ姿が
おれの目の上の
あかい夕栄のなかに咽ぶようにみへる
 
 
                
 
44  *** 鉛筆の走書き(妹へ) ***
 
       (四)
 
かへらぬこのさみだれの光る日
いたむ胸おさへ
こどもたちにつらい顔みせず
遅くなってゆく針のしごとの間からこの雨凛と眺めてゐると思ふ
 
はるかな白い波のことなど思ふか
一つかみのふるさとの海の砂握りたいと
鉛筆の走書きが
鋭く私の胸を裂いていつた
 
 
                
 
45  *** 椎の稚葉(妹へ) ***
 
       (五)
 
おまへはうごかれぬ屋根うらの病のからだで
晴れつくしたふるさとの山の
椎の稚葉のむらがりを思ひ
あの紀淡の海をとばふとおもふのだらふ
 
どうすることもならない潮のこちらに
かたわのはらからのまなこつぶる
うごかれぬおまへの痩せたとがのないからだ
このふるさとの銀の椎の稚葉でつゝんでやりたく思ふ
 
 
                                     トップにもどる
 
46  *** 屋根裏の夢(妹へ) ***
 
       (六)
 
便りのかはり
はるさきの椎の稚葉を封じる
黴臭いさみだれの屋根うらの夢をのぼり
ふるさとの椎の梢に日の光とともにかへりきたれかし
 
生きてゐるうち
とてもかへつてこれさうにないこのころのおまへに
一人のかたわの兄の渡してあげるものは
このはるさきの椎の葉つぱなのだ
 
 
               
 
47  *** 亀 裂(妹へ) ***
 
       (七)
 
赫い
たゞ凄く赫いものだけの世界だ
たまこたち汗疣でないてゐないか
千萬のまちの煙にまかれる傾いた屋根うらのくらしのなかに横たわつて
まなことぢてゐるおまへの胸の痛さがあの赫い夕焼となつてゐる
 
こちらだつて
日に日に亀裂してゆくあかい田圃だけなのだ
 
 
              
 
48  ** カインの一族(妹へ) ***
 
       (八)
 
あかく焦げてゆくばかりの
私たちの火のあらし
ここの
亀裂した田圃の上にたち
らんらんとうづまいてくるみへない鉄の流れをみる
 
どんな未来も過去もない黒い千萬のまちの煙にとぢられた小さい屋根うらの
けらのようにそだつてゆくかたわのたまこたちの母も
その鉄の火の流れにおちようとしてゐるのに
あのこたちは
白いまつすぐい電車みちから
何かたのしい重い夕ぐれが軋つてくるのを待つてゐることであらふ
 
地獄も天国も
未来も過去も噴きぬけるあかい鉄の火のながれのぢきそばの
小さい屋根うらの夕の炎熱に
あへぐおまへの糸のようないきと晴れやかなたまこたちの声が
あのあかい海の上の夕焼からおちてくるが
私は
どうすることも知らない深い亀裂のこちらにうづまいてくる鉄の火の流れを
みまもつてゐるだけだ
 
 
                      
 
49  *** 風 ***
 
たわゝな葉ざくらのかげにかへつてきた
私は二人の女の子をなした
いつかの花々を
たれがもうこの茂ったふるさとの梢の上に思ふのだらふ
私はいま一人この梢をみあげる
光をうづめるこの青さに
一人ゆるやかに念じてゐるものが
どこか青葉の梢にいつかの花を静々と咲かすのだ
のろはれるものは一人
たゝへるものはまた一人の青いさくらの葉かげ
いまふるさとの風となつてまなこを空のさ中にとぢてゐる
 
 
                    
 
50  *** 光明真言 ***
 
死のたより
もうあしたはくるか 妹よ
ふるさとの椎の稚葉にいのる光明真言
三重のとがのないいましめの上に
これらの
椎の稚葉はなぜさわやかに鳴ってゐるか
 
 
                                      トップにもどる
 
51  *** 蹄 ***
 
雹雨に叩かれて
暗い夜の坂をふんでゆく蹄のおとであつた
その山をこして
十年たつてもその鉄の蹄の音は
あたらしかつた
蹄のおとは余のゆくところの焔の坂に
白い光すら立てゝ響いてきた
余はよの音におはれて
さらにきつい焔の坂のいくつかを越へてきた
 
 
                
 
52  *** 母の詩 ***
 
よあけに
どこか火のはぢくおとがした
 
水晶のやうなさむさのなか
こわれた釜のところにいつも跼んでゐた母のすがたが
光のように走つた
 
日のでるまへの暗がりのなか
私はとても一生こへることはあるまいふるさとの水路の寒い漣をおもつた
 
 
               
 
53  *** 盾 ***
 
こどもらはみなたつしゃか
たてにのつてかへつてくるいたつきのつはものとなれ
あかい胸の血噴いても
はかない人のことを恨むなよ
死ぬも焔の地獄生きても地獄
そのみちそのいたつきの剣折れるまで最後の盾にのるな
 
 
                
 
54  *** 灯と生涯 ***
 
一つの
こわれたふるさとのでんとうのしたにかへつてきたこの身の
雨をとぢた秋の雲のゆききをたれも知らない
天も地もいやさらに青く研がれて
やがて何もない雪になることであらふが
こわれたまゝのふるさとの一つのでんとうの光は
そのまゝにねぢけたあかりをどこに照らすべきであらふ
今宵もその煤けた光を浴び
おのれの小さい石の座を呆然と眺めてゐる
 
 
                
 
55  *** 向 日 葵 ***
 
もめんのきもの縞のきもの
これできちんとした
向日葵は白い鉛の日のさすほうへ
むかっていつた
山のあちらの山そのあちらの海
そら晴れて秋になつた
母のことばのいまさらに向日葵の上に深いものあるを知つた
 
 
                                      トップにもどる
 
56  *** 牙 ***
 
一つの野犬は
どこからともなく朝日の山をこしてその貧しい部落にきた
こどもたちとぢきになれて
白い牙はたでの花のなかで戯れてゐた
 
冬になると
その野犬のかたちはどこのほこらの暗がりにもみへずなつた
山は雪になつた
その野犬の牙はどこの白雪に吠へるところがあらふ
こどもたちは松の火のかたはらに
とうもろこしをかぢつて痩せた肋を鳴らし
橡 檜 柏の上から雪はなだれの剣をなして父の生活を圧した
 
私は
月のあるよる
あんたんとしたとちの木の上に圓光をつくる鋭い一つの牙をみた
牙は雹のなかにあつて山のあちらに移動してゐた
 
私も
自らの白い牙をもてあましてその雪にあれた村を去つた
 
 
                
 
57  *** 石 工 ***
 
雨は石工の肋をたゝいて
その山の花崗の断壁に迫つていつた
おとこはかたわの右手の鎚をうちおろす
 
いばらにさかれた傷に
いなずまの巾のみしだいに映へるおとこの錬ひあげた胸であつた
 
あたらしいつちのしたの断層を
どろの雨は潮のようにあらひ
おとこの燦く眼がその鎚の火のあとをまた厳しく鐫つて行つた
 
 
                
 
58  *** 十字星 ***
 
私は
雪にふかれてからの屋台店のようにかへつてきた
こわれたランプのしたに皸の子がまつてゐた
私は
その傾いた壁にからの茶碗をさげてどつかと靠れる
壁に光るものは
私の一つの重い眼 さむさと餓にとがれる千萬の人の十字星だ
 
 
                
 
59  *** 不 死 鳥 ***
 
夜明けは海鳥が雲のとほくのように鳴いてゐる
あのように島をめぐる秋ともならば
この身のかたち消ゆるとも
ふるさとの雲の上のまたかへつてくる白い不死鳥とならふぞ
 
から松の雨は暗くこゝろはそこもなくうづまいてゆく北の海だ
売る 売られるの一生
この芥のような身のはてをどこかの恥多い雲に売渡して
ふるさとの母の海と土とのきづなをはなれるときが迫ってゐる
ある悲しい阿呆鳥の一生を
こどもたちは遥かにおもつてわらふのだらふが
この弱い羽のつゞく限りはとばなくてはならぬ島々の間のはてもない海だ
 
ふるさとはこのころ雨低く
暗く
そらに茂るものの光が無明の人の胸を圧して真実に哭きたい
なきつれてゆく鳥などはまだみへないが
私は知つてゐる
どこかの雨雲のなかをかうかうととぶ白い不死鳥を
さうして私たちのゆく空もぢき雪であることを
 
 
                
 
60  *** 骨 壷 ***
 
小さく白いこの壺へ
あらゆる花の信はかへつてきたのだ
 
うみをわたり
まちをすぎ
ふるさとの青い芒のはにつゝまれてかへるのだ
 
 
                                      トップにもどる
 
61  *** 鳴 咽 ***
 
はらからの鳴咽は
一つのはたをり虫のこへにも足らぬ
未来こゝに尽き
またかこの花も梢になし
 
たゞ
そらに照るけふの白日の土に埋める白き骨がめ
 
咽ぶものはふるさとの山の草のあいだの虫の声
 
 
                
 
62  *** 白斧の秋 ***
 
夜あけの月の光が
どこからともなく広々と渡つてゐた
私は
一丁の白い斧と限りもない長い山のかたちを凝視してゐる
 
私は斧をさげて静かに立つ
私は
おのれの生涯を賭けた矗とした橡の立木を撃つ
とがれてゆく
秋の全面の展開のなかに
私はその谺のみ真実であることを知る
 
谺の上に裂帛の谺をかさねる
白斧はとちの立木の胸に燦とした私の日月を象嵌して鋼の焔を噴く
 
 
                   
 
63  *** 三稜燈火 ***
 
あまりに鋭く
私のかへりをむかへる三稜の燈火に重なる
私のこどもの雲母の眼の閃き
 
わたしのふところ私の掌には何もない
するどいまなこ交すだけの食卓のあいさつ
あしたの吹雪はすでにこゝに凍ってゐる
 
 
              
 
64  *** 門 ***
 
さくらは門をうづめてゐた
いまは白鯉のようにあぢけなく強い心の鰭をもつて
うみをこへて山のうちへかへつてきた
 
裂かれたような日の光の雫を掌にとつて
私は
これから
日々はたらきにでる山の深さを想つた
 
 
               
 
65  *** 秋 の 燭 ***
 
門をとぢた
 
燈火をきらめかした
 
 
                                      トップにもどる
 
66  *** 無 題 ***
 
晴れてくると
雪どけのながれはその嶮しい剣の山の端をみなぎつて
洋々とどこかへながれていつた
剣の山はそらに金剛の光をはなちみちは白雪のなかに
全く絶へてゐた
あさ日と雲のあいだにうしなはれてゆく束の間の地上の悲喜について
悲願のものたちが僅かに天を刺す剣の木々にその最後のみちをきいた
 
雪は
焔をまじへて深く
みなぎつてくるものは常にはてを知らない
剣のいたゞきはまだとほくにもへ
人々は
その冴へきつたものに耐へられず幾人かの選ばれたものが次々に殪れていつた
 
 
        
 
67  *** 潮 (弐) ***
 
みなぎつてくる天地の潮に
絶へたみちをきかうとするな
潮は
めくらの龍のようにおのれとおのれをぶちあはせて
天へ永劫のしぶきをあげてめぐつてゆくだけだ
 
おのれの岸を
もとめようと決してするな
たへた潮のみちへどつかと座つて天地のはてへ流されてゆけ
 
 
                
 
68  *** 剣 の 愛 ***
 
  貧しくてこそ蟲なく妻を愛すといふ ー井泉水ー
 
その子は
銀のかなしい蜩のあとにねむり
かけた皿のそらには
もう走る三日月だ
わたしはいくつもの山を後にし
あなたたちの雲から剣山の中軸にまで
その根かつちりとおろした盤石の生活のかたはら
一人寒く彳んでゐる
 
貧しくてこそ蟲なく妻を愛すといふ
 
あなたらの背に
飛瀑がこしてゆき
烈白の谷はかうかうと流れる
私は
そのはてにたゝへる海の広さをみ
あなたら夫婦の肋もたかくなつたこの剣山の
雲ある愛の般若心経を
秋の夕のとちの大樹上にとらへんとする
 
 
                
 
69  *** 鵬 ***
 
あらしの海はどこまでも晴れたが
浪はたかい
錯落とした胸のいたみの上に
大きな石のあをそらをのせて笑へ
どこも
茫々としたあらい潮のなかに
たつた一つの水脈もまたふとしない鵬のように大きく
 
         
         
    山 河
 

 

 
70  *** ネプチューン ***
 
       一
 
ちゝは
あさから略奪の魚扠を
力のと石でするどくする
そして
腕の黒いこぶの中にかくした
 
青天
灼きつける白雲の
さあちらいと
父は
鱶のくらい骨髄をもつ
彼は鋼鉄のバネある魚扠を
腹にする
そして中古の船のキカンに
ムラサキの朝を発火する
 
テイキアツハ呂宋南東二十哩ノ地点七四六粍次第ニ北上ノ形勢
    ・ ・ ・
さかしにのりきる
黒潮のウヅは自殺に等しい
 
父のこゝろは
いつも
船のシリンダーの中に発火する
ぼくらの薔薇いろの顔にある
 
       ニ
 
クヂラは
億年の黒潮の呪文を噴く
その
そうそうとおちる真珠のしぶきの下に
ちゝに
ぼくら一族の
生活の蠕動をみた
 
かれは鋼鉄のバネある銛をうつた
(舵輪のそこに黒血のうるこをさかだてゝ狂ふもの……)
 
しかし父は
金輪ざい
一族の咽喉をつなぐ
この
ものすごい死の鎖は離さなかつた
 
       三
 
人間の
あをじろい手が出た
足が出た
フカのあらい金剛砂の肌は
恐ろしい
のろへる黒血にあつまる
鴉のノスタルヂア
魚場の人々の眼は
カサブタのついた銅貨だ
 
母や妻らは
血だらけの勇ましいユダのため
新しい
海洋の匂ひをつめた
シヨウチユウの壺を買つた
 
 
                    
 
71  *** 地獄の星 ***
 
黒い
風のあるそらをみてゐると
おれのからだに痘病のやうに縷められてある星のあることが判る
おれは小さい自分の子らの口のため
山から山をあるいてゐる一匹の濃い人情の狗に過ぎないし
大それたそらの非情の星を羨やまうとは毛頭念はない
 
おれは只かうして
おれの先へ先へ走る夕日のあとを
石ころにけつまづきながらいつものろのろと田舎者の
みすぼらしい風体をしておつかけてきたのにすぎない
 
おれはいつもおれ以下の田舎者から野良犬のやうにさげすまれ
足げにせられても黙つてゐた
おれはその時自分の傷を犬のやうになめ
子を連れて日のかげる山かげから
山かげを擇つてあるいたものである
おれは死の隣りに働き疲れてゐたが
そのあひだに自分のからだの所々からうつくしい痘病のやうに放つ
 てゐる病の星の光りに気がついた
おれは死の上にその星を信仰した
 
おれは相かはらず田舎者の風体であるいてゆく
おれは
自分のからだの地獄に光る星を
あのそらの非情な星にくらべて羨やまうとはもうおもはないのである
 
 
               
 
72  *** きちがひ ***
 
きちがひとは
むしろ玉のやうに生れかはる人であろう
七人のぼろを下げた子と傾きかゝつた海べの掘立小舎をのこして漁
 師はきちがひになつた
あいつの鉄のやうなからだにもふせぎきれない貧の地獄が燃え上つ
 てきたのだ
かれは手をあげて憎む奴をなぐらうともせず
自らのからだとこゝろをいぢめてとうとう冷やかな一枚の鉄の板に
 かへつてしまうのだ
おそろしく憂鬱な冬の海がしぶきをあげる風の日
王さまになつたあいつは
とりすがる子らをもぎはなしてはだかのまゝ何かからから笑ひなが
 ら波の方へ走つていつた
さうして益々豚になつた綱を曳く魚夫たちに指をさしてあざわらつ
 てゐた
 
あいつは波の胴中にかくされた憎しみの正体をとらへることができ
 なかつたのだ
きやつは悪魔に放つ矢を自らの胸にむけた天使の一人であつた
 
きやつの埋めてしまつた火の眼の上に
さいがいもなく暗い波がほしいまゝに跳梁した
 
あいつの女房は首を縊つて黒くゆがんだ松の木になつてしまつた
 
 
                
 
73  *** 童子断唱 ***
 
麦めしを
さらさらたべる子となりき
 
日さしこみ山の雪うつくし
    ・
大根の花 おしめの花
わしのそだてた聖十字の花
    ・
わたのはみでたもめんのふとんに
十年の霜をあたゝめてきた鴨めくらの
ぼろで巻くとも
子らのとほい石の曙にかぜをひかすな
 
青い松よ いぢめるな
    ・
心の雪に曙のちゝの竹折れ
そこから子どもの虹が生れた
    ・
白々と曙つけて
まるい日の眼をまたず雪に折れる
孟そうのたけ
南無 ちゝのめしひたる相
    ・
うつくしきもの・・
玲子のけさのうんこにつもる天の雪
    ・
かけた茶碗一つもつて
子らよお前たちばかり先へ急ぐな
ちゝの足は雪に埋れちゝの頭には雪がつもつてゐる
 
こどもよ
こゝはどこの寂しい風景の中なのか
どうやら私の目も暗くなつてくるやうだ
 
 
                
 
74  *** 咳 ***
 
ぼろを
たゞ厚くつみかさねる村のならはし
母のからだにぼくの病の首をつぎ合せ
美しく眠る
雪の中に母のする仕事など一つもみつからなかつたのだ
 
洋燈の芯は
はてのない雪の闇から
きえかゝつた恩愛の絵図を ちちと吸ひあげる
 
たべてないから ぼくも母も
大根になつて
舌ばかり出して目をとぢ鼻をとぢてゐたのだ
    ×   ×
母よ
そんな高い水晶のしはぶきは止せ
おれのあばらまで咳が出るではありませぬか
 
おのれにどうせ一枚の
夢の羅も買うてやらなかつたから喃
おまへ
そんな因果な
ギブスをはめる病にかゝつたらう・・と
 
あんたんとした雪風がそのとき
一つだけのこつてゐる家具の洋燈をふき消した
水晶の母の咳は
あのときそのまゝそらに結晶してしまつたのだ
 
無論・・
ぼくの背中の病龕は
いつも天のギブスによつて支へられてゐる幸福を
母はしらずに死んでしまつたのだ
こゝにもう火をとぼさなくなつた明治の洋燈がのこつてゐる
ぼくはもうそれに火をつけようとおもはない
雪の夜のそら かすれてきこへる母の咳
 
おまへ
おまへの背中のあんばいは少うしましになつたかえ
 
否 母上よ 私の咳もおつつけ雪の夜のそらに結晶することでござ
 いませう
 
 
                                      トップにもどる
 
75  *** 火 車 ***
 
青い松の木が
ましらのやうに童をいぢめ出した
雪のに反転する恩愛の断獄      
えらい風だな 雪だな
 
病気の火だるまのやうに
うごかれないのだ
おのれの口が章魚になつても
童の可愛い口にならないのだ
 
畜生
このくすり瓶のさきにある雪の
みんなを落さうと言ふしかけだな
 
たれが一体断獄の刃をもつてゐると言ふのか
 
おれか 君か
石か
たわむ青い松か
まるでもうおれに
たれかれ讐の堺はないのだ
火事だ みんなが
 

   

     がけ

 
 
                
 
76  *** 一 角 獣 ***
 
雪は
あけがたの白い牡丹のやうにおちてしまつた
 
あれたあとの岩のそらなく雷鳥こそ
おまへの
全生涯をかけた神の係蹄ではないか
 
おまへは
その声のあるところに斧をさげて急ぐ
    ×
おまへは
きのふのまゝの毒ある鎌を石にあてゝとぐ
 
おまへは雪にのこされた一本の橡の立木に
全力をあつめなければならない
雪どけの潭はおまへのからだの中心で矢よりも早い
 
だが
おまへはもう昔のやうに眩暈しない
岩はつねに花のやうに優しい
 
白い渦はおまへの戸になつてゐる
    ×
ゆたかなこどもたちの髪を
あすのない朝日のなかになでる
こどもたちは
石の雪の上に鳳のやうな挨拶をする
おまへは斧をさげて
白い牙の一角獣となる
    ×
おまへの足あとから
わなにかゝつたけものがもがいてゐる
おまへは只雪をけちらして急ぐ
 
全ては
白い金剛石のやうにかゞやく
おのれの第三の天のかたちではないか
 
しかしおまへは
一角獣のやうに斧をきらめかして急ぐだけだ
 
不動の像か
おのれのあたまの上に崩れてきても雪の弥陀の利剣にすがるな
 
岩は花より優しい
おまへは明日のない岩から岩と渦の上を飛んでゆく
    ×
おまへは毒ある斧となつて
雪にのこされた聖母のやうな橡の立木に
おのれの三十年をかける
 
潭は
おまへのからだのなかにも白い牙を鐫つてゐる
 
おまへと白い斧の力の轟々たるこだま
    ×
天地をかけて愛したもの
 
それは音のない斧の光のまぼろしだ
 
あるものは雪の上に轟々とした一本の橡の立木だ
 
何とはなし剣のかたちした岩のために泣かれてきた
    ×
おれは
白い牙ある悲しき一角獣
 
 
                                     トップにもどる
   
77  *** 鴉 ***
 
おまへは
地獄の青い炎で独眼になつた
おまへは今狐狸のやうに天国の柱を子を負うて眺めてゐる
甍では時代の天使があざける
 
汝 愛の蛆よ
むしろ千羽の鴉となつて飛び去れ・・
おまへは
すべてをみて何もみなかつたに等しい
お前は自らの炎と白雲のなかから只一個の嬰児を醸しただけだ
 
おまへは愛の鴉になつた
おまへは四肢は刺扠のやうに奴隷の食物を攫ふ
さうして微塵も自分のものをもつたことがない
お前は子らのため
千羽の鴉となつて青空を暗くする
からあ からあ からあ
 
 
                 
 
78  *** 白牡丹図 ***
 
父死ぬときは
子らの
手にぼたんの白き花をさゝげしめよ
 
あはれ
この病む手にとりても
消ゆることのなき密の青空
 
こを
裁ちて出づる旅を想ふ
 
 
               
 
79  *** 大盤石 ***
 
黙れ
 
あられの殺がれる大盤石に
 
みよ
あをくもえさかる天地の愛の焔
 
石は
すべての貧しきものゝための無垢の祈祷
 
みよ
この深山の石から走る千万の愛の青炎
 
叛くもの
みちなきものの名をしるす大盤石
 
 
               
 
80  *** 黎 明 ***
 
よあけは
はるかの風雨のそとにあるが
おまへにはなにもみえない
雲からたれる雨のおとに交るよあけといふものが
じつに不思議におもはれて嬰児のかほを眺めてゐるのだ
おまへの一眼は
芒のなかを刺繍するけれど
おまへには密雨のなかのあけぼのといふものが判らない
さうして
ひたすらに手をついて嬰児のそばの
青くなる天地にあやまつてゐる
 
 
                                     トップにもどる
 
81  *** 牛 ***
 
まだらの大きい牛が
あさから自らとあるいてゐる
ランプの青い火かげにうつるふるさとの雨戸をみよ
 
ふもとはどこも
水のやうに大きく愉しげである
 
子らよ
その白い蛾のとぶ
清いランプの火かげへ集れ
父の巾の広いこゝろのかげは寒くて堪らぬのだ
はるかの浪おとも麦の五月の夜であるのに
 
 
               
 
82  *** 白 鯉 ***
 
汗ばんだ天竺の襯衣を
せんだんの花につるし子と二人
池の白鯉の悠々と大きく泳ぐさまを眺めてゐる
せんだんの花のふる
山の池はまことに寂しい
 
青いうづのなかに
たくさんの仔をつれて
あれら天地の果をゆくものゝやうに
自らの
雄々しい姿を愉しんでゐる
 
せんだんの花はその上に
はてしなくふつてゐる
おれはもう何も考へることはない
自らのこゝろの白鯉をその池にうつし
しぶきもあげず幼い子のあたまを撫でる
 
 
                   
 
83  *** 山上風雨 ***
 
ましらの雨が寒いといふのか
お前の膝の骨が風雨に濡れてゐるといふのか
しかも何もかも美しすぎることではないか
くらいふるさとの山々の腹を
よこなぐりにする風雨のそこに座つて
おれは只
はるかなふもとのきらびやかな燈火を眺めてゐたらよいではないか
おまへはその燈火の消えるまで
銀いろの風雨を紡いでゐるものではないか
燈火のなかに
おどる人がみえおまへの恋人が抱かれてゐたと言ふのか
その燈火も雨のましらが次々に消してゆくのではないか
その人とは松の木のことであるか
風雨の光であるのか
たれも風雨の上に
命の火をとぼすものがないではないか
さうして山と野の大きな鎖のはてから
すでに暗い藍色の東雲がせまつてくるではないか
おれは
雨のましらの天を走るのを眺め
とほいふるさとの山の端を白鯉のやうに凛々しくかざらうとおもふ
おれは守り手のない子をあやし
子はおれを大きな松の木のかげにしてゐる
 
おれはおだやかに山上の闇と雨とをいたはり
あした
否永劫の風雨にしづかに渡す
 
 
               
 
84  *** 鉄の鷲 ***
 
あらしの兆のまゝ暮れた
私は生涯のもつ総てのものを失つて嬰児だけを
しつかりと病の胸に抱いて海のかたはらの軌道のところにたつてゐた
白い浪がしらが深い闇の沖にすかされた
どこか知らない海岸であつた
ふるさとの海岸にも似てゐるがそれは私の長い衰へのせゐであらう
 
とほくから鉄のあらしが耳をうつた
私はなぜあの響きを若くから愛せなかつたか
私は
一人の汚い火夫でもよかつたのだ
 
真黒い貨車はあらしにめげず目の前に現れた
ぼいらあを焚く火と人かげらしいのが
かすかに目の前をとゞろきながら 
 
そのときふと死んだ兄のことが泛んだ
兄々 青い焔を焚いてゐる地獄の汽車の兄
あの貨車こそ兄の貨車ではないか
 
くらい鉄の響きは
砂礫から私のからだもこどものからだも一切なくしてしまひそうで
 あつた
私は大声で兄の名をあらしの中によんだ
そしてふところの嬰児だけ奪はれまいと必死になつておそつてくる
 黒い旋風とあらそつた
 
白い骨と
黒い雲と
車輪と
青い火と
鉄のとゞろきと
その時非常な速力で通過した
何もない空虚 私の目は濡れてゐた
こどもはしつかりまだ私の胸にあつた
凄まじい鉄のおとは
砂礫のなかに埋没され軌道が直線に無限に横たはつてゐた
雨さへ加つてきた
 
あらしの海の空の一所に不吉な光曇があつた
私の前を幾千萬の鉄の鷲がとほつて行つた
あらしの断雲でもないのだ
 
凄まじい風と雨である 火のつくやうに嬰児が泣きだした
だが私はいつまでもつめたい夜の無限の軌道に横たはつてゐたかつた
 
夜は白まないのであらう 私に
雨と風とにすべては埋没され
その上を幾千萬の鉄の鷲が駆けて行くのであらう
 
兄よ 地獄の貨物列車の兄よ
私もまた遂に
 
 
                                     トップにもどる
 
85  *** 影 ***
 
つららのやうに
たれて
きらきらと光るもの
天のはてを
あのわきかへる思ひもとんでしまつた
 
何もかもの上にたゝいてゐるあられ
 
短くなるばかりの
おのれの影を
ふきさらしてゆく天の寒さの涯もない
 
 
               
 
86  *** 生 涯 ***
 
いくつもこえた険しい山
いくつもこえたダンテの夜ぞら
おゝ
そのやうにわれらは
火をたく汝らのそば
雨におはれて風にふかれて
かへつてくるのだが
 
夜はさらにまたとほい
山は
またはるかにある
 
 
               
 
87  *** 青 葉 ***
 
こどもは
ごはんをこぼさずに静かにいたゞくもの
いたゞくときは
いたゞきますとあいさつするもの
 
ごはんは
三千世界のおまへたちの仏さま
 
けふは青葉がそとにゆれ
病の父はたいへんさみしいことを考へて寝てゐる
ごはんがすんだら
おとうさんのまくらもとに坐つてゐて下さい
 
 
                
 
88  *** カキノタネ ***
 
ハヤクメヲダセカキノタネ
ダサヌトハサミデハサミキル
 
女の児の声はさやさやと白い障子にひるがへり
けふはたいへんあかるいはるである
私は
こどもたちのために美しくおとろへてゆく心を
あの声からはつきりと感じてゐる
 
ハヤクメヲダセカキノタネ
ダサヌトハサミデハサミキル
 
 
               
 
89  *** うそつきぢいさん ***
 
たはけたうそに白けたぬかるみのうそをかさねて
幾としのせのくらい天をながれる
果もなく・・
金の十字のどこにあらうぞ
波羅葦増雲は
米屋のおやぢの頭陀袋にある
この身一つを担いでゆくあたらしい年の雪の鬼奴ら
    。   。
日ぐれ
ゆがんだ松や
石のあひだから
いつも血の咳しながら
こどもたちのところへかへつてくる父の亡者の波羅葦増雲
 
霙だ
税の血へどの切符だ
    。   。
うその種はどこにもきれ
からの茶釜のそこにさんらんと燦く地獄の美しい炬だ
    。   。
優しやの
かなしや
うそつきぢいさんの尻の衣も破れ
だるまのやうにうその峠に火を噴いてるど
 
うそつきぢいさんの
うその噺
こどもとこはれた茶瓶の湯だけ真身になつて
きいてゐる年の瀬の寒い室
 
うその山も今宵は雪が
障子ごしにちらちら光るはそのうそつきぢいさんの悲しいもの狂ひ
 の火であらう
 
 
               
 
90  *** 鑰 ***
 
おろかな人たちの間に
拮と抂んだものはそのまゝに閃すら立てず
大きく黒い根を雪のしたにおろした
 
夫は妻と子は親と
冴えきつた雪夜の燈のしたにも爪を立てゝ
たはけた銅をあらそつた
わたしは
その鐫のやうなあらそひを胸に秘める
どこからも
よあけらしい物音は闃として聴えないのに
たはけた者たちの口論は
果てしなくがたがたと雪にこはれた戸を鳴らしてゐるのだ
 
わたしは石のやうに重く
こはれたかれらの戸口の雪に荒れた燈をうかがふ
わたしは
その短い燈のありかをきつと尖つた胸に畳む
 
凍てついた北のみちを黙りながら
あかつきの
吹きつさらしののつぱらにあるいてゆくのだ
 
 
                                     トップにもどる
 
91  *** 鮫 人 ***
 
づつしりと底の広い
赤土だけのよあけの傾斜にかへつてきたところだ
 
星のあちらの人たちのことに就ては
もう何も聞いてくれるな
 
おれは
白く凍るものにかちかちと歯を鳴らし
これから
そのだだつ広い傾斜をさらにのぼつて
こはれかけた童の宅へかへるところだ
 
おいおい
愛の涙のともるこの尖る明星だけの坂みちできいてくれるな
おれの腰にうちこんだものは鎌だけだし
もうとちの木に重くなる雪だ
 
 
                
 
92  *** 舎利礼 ***
 
    存在の家居は永劫に建てられてあり・・あらゆる此処
    の球はめぐる。
    中央は至る所にあり。永劫の道は曲りたり。
    ・・ツアラトウストラ・・動物らの回帰
 
荒居はもう風雨の肋のやうに
曝され崩れてゐた
雪のころ
合掌させたまゝ老いた不羈の父のむくろを焼いた
間もなく
のこつた母の喉仏を芒の崖みちへ送るときがきた
 
一人
自分はそれらの灰を取りかたづけ
住みなれた剣の山をあとに
私のあかんぼたちとこはれた道具を車に積んだ
やがてあさ日ののぼる
風のあらい雪の平原の方へ
舎利礼を唱へながらくだつて行つた
金輪奈落のそこを求めて
おのれは天かける火の鳥のやうに自由を凝望した
車は雪のわだちだけのこして剣の山は雲のなかに消えてしまつた
    ×
おのれは
もうその住みなれた山のかたちを
はつきりと思ひ出せない
風雨にこはれてゆく家は私の夢の上にものぼることはない
 
剣のやうないたゞきのどこかに
雪にうもれてある父母の生涯のみちは
こゝにも暗く雪にいためられて曙のころを待つてゐる
    ×
火の鳥は
いまだ凛烈のそら高くある
うつし身はすでに千萬里の距離の白い寒さに砕かれかゝつてゐるのに
    ×
大父母の山は
どこにあつたか
こどもたちはその雪の深さすら知らない
こはれた道具のなかに眠つてこゝまで牽かれてきたから
 
おのれはまた
自らの舎利礼を唱へて急がねばならぬ
つぎの曙の山の後の雪に埋れて忘れはてゝゆかれるために
 
あさ日のみ
萬丈のたきのやうな光を金剛の山の上にはなつて
次に生れてくるものを迎へてゐた
 
 
               
 
93  *** 耽 視 ***
 
また
あたらしい断雲が鐫られたおのれの眸を
とぶやうになつた
断雲は
山の上にも己れの厨のなかにも
河のそこにも至るところにあつた
 
自分はいつもその風にもまれてある
    ×
剣の列のやうに白く重々しいものが
あの雲のあちらにあるきりだ
 
あれを頸にまいてゆれてゐる芒などを
羨むこのころのくらしの抂みを
どうでも掘つてゆくあてをみつけなければならないのだ
断雲のあちらの
何もないつるぎの白さにおのれの夜明けの眸は
重くさめきつてゐた
 
 
                
 
94  *** 無 頼 ***
 
広々と焔える火の追放と刑罰のたくらみをふみにぢつて
自分のからだは一眼の蛇のやうに
はるかの雪のそこのわなに身構へした
    ・
死ぬる生きる
どんな間一髪のあらしでもこの山の雪を研いでゐるではないか
 
絶端の
この大雪のなかその剣の松は
重く生々とそだつて反転する旋風にどことなく輝いてゐるのだ
 
どつしりと破れた胸を据ゑろ
斜面はどこも光る雪の地獄だ
 
だましだまされた火のなかの千里の行路のはてから
一つの太々しい信頼が蛇のやうにのたうつて光つてきたのだ
 
だきつきたいほどの青い衝動の根を無明の雪のなかにおろして
自分は
その一本松とともに
雲のとぎれた阿波の国の雪の谿を眺めてゐたのだ
    ×
凍る
大日輪が一つ
自分のとがつた肩と肋とをいたはる山の絶巓の
雪の笹はらは
捨てた国をこえた祖谷の谷川へでるみち
また
ちらちら降りてくる白いものの中に
重い千噸の大理石のやうなことを話し自分と自分の頬に紅の輪をは
 めてゐた
 
自分の微笑は
寒さにゆがんでゐたけれど
自分は
あれら雪のうしろのだましだまされる人の非情のなかから
今漸くかへつてきたおのれの襤褸だらけの無頼の信に
かうかうと重くもえきつてゐたのだ
 
自分のふところには厘銭なく
自分の
ふところには氷に目をとぢても忘れがたいおまへの顔と
あさのこほる白雪さへとんでゐた
 
しかし自分は暖くきはめて尊大に自分の火に暖められてゐた
自分のからだは一つ眼の蛇となつて明日のない雪の淵を覗き
その痴者のやうな雪の青い松と自分を
無限奈落の上に巌として据ゑなければならなかつたのだ
 
刑罰の火よ
自分の頭を焦がしてさらに千里を走れ
 
自分は
もうそのとき
どこへゆくべきところもなくした一人の無頼であつたが
その雪の奈落の青い雄松の葉に
だきつきたいなつかしい衝動をおぼえて
愈々鋭く輝いてくる笹越の雪にがつしり立ちつくしてゐた
      (ツアラトウストラ風の自序の一部)
 
 
                
 
95  *** 歯 車 ***
 
あら海に沿つた
とある荒凉としたから松の点綴する雪の部落ののした          
一人
わたしは黄濁の大落日をもてあましてあるいてゐた
頭上をすぎる雪の急行列車の重い地鳴りからのこつたものは
鎖された窓をへだてる氷のやうな急速力のあらゆる非常の嘯では
 なかつたのか
 
砕かれたあたまのふるさとに鈍くひかるは雪の日ぐれの平行線
その一つのあちらの涯に会ふことのない花やかなお前がゐる
友がゐる
都の大燦光がかゝつてゐる
 
おれはもうそのあかるい非情の車体の厄介にはならない
おれの胸には礫のやうなものが軋り
眼は茫々と暮れてゆく北海の大濁浪のうづまきにおかされてゐる
 
おれは暗いをもう一つ降りた  
    ×
つめたい石ころ、凍る汐水のうづまく無機物のしあはせを
掌を合はしてをがんでゐた
よせてはかへす無辺際の青い律動のなか
おれは
きちがひになつて没くなつた不幸な母の美しい眸をいまこそとらへ
そこに嬰児のごとく眠らうと欲した
    ×
また
轟き去る排雪車の嘯
わたしは実に雲の上の童のやうにやさしくなつて
そこらの生ある真砂 流木の破片らと風浪のなかでお伽噺をしてゐた
 
わたしの湖のあちらの惨めな経歴を
わたしを愛したきちがひの母の牢のまへに日に三度のたべものを運
 んだこと
人に奪られた果樹園の桃の金いろに大きかつたこと
わたしにそむいた女の好きだつた白い仙人掌の花のこと
それらのまだしあはせだつた日の車の
凄まじく覆没して砕かれてゆく悲痛な音を浸してくる北海の波濤の
 嘯に暗く聴いてゐた
 
わたしの足からわたしのはらわたから
時間は白く冷えてくる
わたしはきちがひの天の母のところへ裸のまゝでかへらうとしてゐた
    。。    。。
       。。
生きてゐた
 
人とはこの雪の尺にも足らぬ
灰いろの曙へ
わたしのからだが自然に向き足がうごき
排雪車のまあたらしい喚きが凍る耳たぶをうつた
    ×
生き死の
そのこほる白い北海の雪の上
らつせるはきのふのやうに蒸気を噴出し
わたしは板のやうになつてその人たちに救はれてゐた
 
凡てのいのち
凡ての闘ふもののはがねの心理
凡ての蠕動するあたらしい機械
それらは只青くかゞやく天地の青い律動の一髪に縷がれて
日も夜もうごいてゐるのではないか
 
海は山にかはり
山は海にかはり
わたしは
濡れしよぼけた嬰児になつて生れてきた
このつららの垂れるぼろと油だらけの工夫らの排雪車のなかに
よせてはかへす北海の
青い青い非情の律動の大きくはてのない喚きの上に
わたしの気のくるつて死んだ母が
こんなにも広い日にてらされて白い菩薩のやうに浮んだことはない
 
廻転するピストン
螺旋形に噴出する蒸気の白金
 
このわれらのくるつた地とからだのあちらのあなたの
ぼくは工夫らの穢く喚く排雪車のなかで哭きながら拝んでゐたのです
母よ
みぢめに没したあなたを
そこの美しい礫の雪に立つて赤い信号の旗を振る踏切りの
年とつたわれらの階級の女に生れさしてくるため
わたしも凍る軌道に鶴嘴をふる工夫にでもなる
きつときつとしひたげられる者のためにやらうと思つた
    ×
日がくれてゐた
石がきがあつた
電流を断たれている漁人たちに暴動はなく松火をたいてゐた
いたちのやうにその人たちのぼろの一端にもぐり
その人たちの海の濁つた巾のある声にあたゝめられてゐた
ガス ガス
ガスはそこらにもいつぱいくるのだ
しかし
どんらんな冷い闇はどこからくるかその人たちは知らない
かれらは鮭を焙り石器人のやうに生きてゐるわたしは
その人たちの深い闇のうしろにまなこをしばたゝいたが
寒いあの渦まきの音のなかからもう何も求めやうと欲しなかつた
 
わたしは真下の吹雪の北海のガスの上
その聖家族らとまくらを並べ
あけてくる流氷の力づよい反射を静かに待つてゐた
あらゆる闘争の律動の環流にとりまかれて
    ×
人は
ぼろを深くさくらいろの嬰児にかけ
みなやつれて昆布などほしてゐたが
氷雲のとぎれの日のやうにあたゝかい眼をしてゐた
みちに困つてゐる私に
夕日のあちらの部落を指して乏しい塩鮭など分つた
    ×
くれたものはみちゆくこどもにやつた
こどもの眼もわたしのやうに落ちこんでゐた
わたしたちは
ひきつるやうにわらひ黙つて月夜のみちを氷屑の汐に鳴るのをきき
 ながら離れた
 
わたしの死んだ私生子のやうに頭だけ太いこどもであつた
    ×
かんがへるといふことは
鮭のはらわたを啄く黒鴉の群になることだつた
それらはから松の林をこえて日に何千羽となくどこかへとんでいつた
茫々とした黄塵のなか白い砂の起伏のなかなど
黙つてわたしはあるいた
わたしは
わたしをまつもののない黄泥色のふるさとへ
かへりつゝあつた
                    (ある追憶のノート)
 
   がけ
                                      トップにもどる
 

 

 
96  *** そ の 妹 ***
 
くらい屋根うらのそらに
いちめんにさいてゐるさくらの淡い夢
 
おちてゐたものはわたしの脱髪だけでした
わたしは寒い
わたしの桜のさく山はこの煤けた壁のなかにいつも圓い月をいたゞ
 いてゐます
    ×   ×
黴くさい屋根うらのそら
剥げた壁のなかにある山桜をたづね
鳩のおもちやをうだいた珠恵とともに眠る
このうごかれぬからだを一つの眼にして
ぢつと
ふるさとのはうから増してくる花の雲を眺めてゐます
さくらの梢につぎはぎの母の袖がみえ
とほく月に白い湾があるのです
    ×
あの珠恵もはるのきものなどない
あの娘の春も
この熱くさい母の眺める壁に
雪を分けた青い麦の波のやうに豊かです
剥げた鳩の友だちと遊ぶだけで泣きもしないのです
あの娘は冬からこの階段を下りないのです
    ×
枯れた野山を鶴のやうに啼きながらかける夢
この路次のガラに雪の消えるころは青い竹林の夢
山桜の夢
灰いろの甍から沁みてくる暁も生きてゐるものやら
夢のなかやら
 
わたしのからだはいつも深い海のやうに閑かでこのがらくたの屋根
 うらに珠恵とだけ
贈つて下さつた桜貝を拾ひながら暮れるのです
 
 
                
 
97  *** 蜀 魂 ***
 
あるものはとある日の粉雪となつた
さうして
終夜ふるさとの青い竹林のそらで啾啾ときこえた
あるものは
玻璃の東雲の燦光のやうに弔の窓を駈けぬけて
こがらしとなつて黄濁の海のはてへおちてしもうた
 
わたしはその幻をみない
わたしはいま青葉のなかによく研がれた蜀魂鳥をきく
わたしのはらからの一髪すらこゝに余してない
                  (父母への弔詩)
 
 
                
 
98  *** おほばこの花 ***
 
風があつてもこちらのそらは和いで青い
うすい雪ののこる田
おまへのすきぢやつたひつこちなど藪でないてゐる
かへつてこい こどもたちと目をつぶつて
ちーんとしたおまへとだけのときを
初めての母のぶつぜんのときのやうにもたうよ
    ×
くらいゐなやの二かいはあけておいてある
したにはまだあのおやぢのときからの牛がないてゐる
かへつてくるがエヽ
うごけなくなつてもそこの窓からゲンゲや菜の花が光つちよる
こどもつれてこつそりかへつてこい
    ×
くわの木のやうに
からびたまゝでも息のあるうちかへつてくるがエヽ
こはれたゐなやの二かいでだれがわらふもんか
みな困つてそれどころか
人らしい往生をもとの枝でせエ
からとりのやうなおれたちのことではないか
    ×
まるこい石山のこちら かさゝぎの雪のやうにとぶこはれたその家
たれもかれも白いほとけになつてかへつてこにやならんぼだいどこ
ぢやきにこの垣この柱だいじにする
妹ならの若葉がもうきつちりうちをつゝんぢよる
    ×
おほばこの花がさく
 
かへつてこい円う考へてこのうら山かくれてこい
    ×
やけでなく牛の図太い声がきこえるくらい納屋
おれにそのひもじい声がわかる
おれにそのくさりをかむおとがわかる
妹よその牛のゐるこはれの二階にかへつてこい
 
 
                
 
99  *** 貝 族 ***
 
               ……ある形而上の会話……
 
貝をおくつて下さい
わたしの息のあるうち どんな小さな桜貝でもうれしいのでせう
 私は雪と煤煙の澱つたそらを眺めてこの高架線のもとなどで死に
 たくはない
わたしはあの人がセルロイド工場へでてから珠恵のそばで考へるの
 です あの鉄の嘯が真青い波となつて砕けますやうに……
 
金いろのうづまきのそこにある母の桜貝がほしいといふのか
その人もあの雪の桑畑をこえていつかの夕焼になつてしまつたな
妹よ
きつとその雲の海原のそこにあるものをとらへにこの冬のうちいつ
 てしまはうと言ふのか
 
珠恵小さなよく眠る珠恵
あのやうに高架線の上にこどものやうに手を振りながら
この灰いろのいらかを花の雲の方へとびたいのです
そこの青い渚でお母さんと小さな桜貝を拾ひたいのです
 
寒い
むらさき水晶の海のそこにもぐる海女
その
たまゆらの白い蹠をのぞいておれはあがつてくる貝を待ち
高架線のもとに喘ぐおまへのからだをさつきから曇つた眼にみてゐ
 るのだ
おまへのその白い苦しげな蹠の一生を
わたしの水銀はのぼる
わたしのからだは深い海へ沈むやうに暗いのです
わたしはもつとかるいこけらのやうに生れてくれば仕合せだつたと
 思ふことがあります
 
金いろのうづまき
その悲しいそこのつめたい美しい貝をおくる
この貝どもは
その身をちゞめて
その都の灰いろのいらかの上を高架線にゆられて
不思議さうにゆくことであらう
そのとけぬ青い青い人生の不思議について
この貝のやうに何も考ふるな
妹よ
 
おまへは美しい桜貝のからとしてかへつてくるのだ もとの母の海
 へ……
 
 
               
 
100  *** 基 数 ***
 
ひひと
わらふだけの白痴のこどもも
そのあたらしい吹雪のしたの一群にあろ
 
さよならと
凍てついた小さい手をこちらの寒さにあげるかれらは
雪の日没までやつと基数の加減をおぼえたことが
天へのぼるほどうれしかつたのだ
あの薄のろのこどもも
路々のならの裸木をかぞへて
たゝみのない部落の母のところへかへるのだ
 
わたしはこちこちした寒い部屋にのこる
わたしの渡した基数のそれぞれの行衛をあたらしい吹雪の律動のし
 たに
ぢつと一人重く考へる
 
 
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101  *** 荒磯詩篇 ***
 
わたしのからだに
砂礫のやうなものがまじつてゐる
わたしのたかいのどに金のやうに灼としたおもいものがつまつてゐる
わたしのからだを
夜のあひだにはげしい光芒のやうに裂いていつたものが
わたしのうしろにながれて重い
あれは風雨だつたか
あれは雲の紫電であつたか
わたしははげた丹のいろのあらいそをこし
茫としたあらいそにでる
なみはわたしのはらわたをしめて
深いところからごづのやうにたけつてくる
どこかの鳥獣魚介となつたものを
わたしは
どこの青いそらからさがしだしてくるといふのだらう
わたしこそおそろしい地獄の羅卒だ
たけるあらいその濤にうたれて
こどもをとめて喚いてゐる
    ×
どこかのはての
鳥獣魚介のなかに生れてゐる
わたしの小さな真身舎利よ
青いそらからさんさんと灑ぐ光に
どつかりとこの銘のないあらいその自然石を据ゑてしまつた
    ×
目のないうろくづのそのかはゆきものは
いづこのあらいその草に寄れるぞ
    ×
噎は
かわいた白い沙塵となり
あふちの葉のみ眩しくて
ほとけはどこにもみえぬもの
    ×
おちてゆくまばたきのくらい熱砂よ
なにもかも
そのさくらの頬は
こはれた眠人形と餾麺麭の袋だけもつて
この荒磯の白い熱砂を潜つてしまつた
    ×
あらいそのくらい熱砂のなかを
たづねてきた瞽のちゝの
一本の杖さへこの乱礁のあたりにはない
こどもの像に似た奇岩さへどこにもさぐれない
無間のあかい熱さが堤婆達多のやうに焔えてゐる
    ×
錐のやうな
白いよあけの礁にたちこどもを喚ぶ
おちてゆく無間の砂に
なかにうづめた噎が何にならう
礁のやうにわたしの胸はさけてちつてしまつたのだ
    ×
まだ桜いろのちひさな屍は
あらいその粘つた黄いろの霧のなかに埋めた
そして
磯から拾つてきた大きな圓い礫岩を一つ据ゑた
    ×
こほりがたべたい
つべたいこほりちやうだい
くらいその最後の声はもうこのこはれたふるさとのいらかのしたに
 ゐない
どこか燕もとばない灼熱の黄土のしたで哭いてゐるのだ
    ×
すきだつたお握りとだんごそなへるだけの
その日くらしの
真上に照らす夏の深いひかりよ
樗の陰にも
どこにも娘はもう涼んでゐない
                      (亡児のため)
 
 
               
 
102  *** 白い慟哭 ***
 
杜鵑よ
そのやうにおほびらな白昼の慟哭は嫌だ
わたしは古い漁船の蔭や
樗のしたにゐて
もう声のないまつ白い鵲などがみたい
あの娘はみじめな吐血の死にぎはも
どうしても哭かなかつた
わたしはそのしをらしい白い強情にだけは ついほろりとする
杜鵑よ
わたしもこの沙の玉虫のやうに哭かないで
しづかに儂ののこされたところで燦いてゐやう
 
 
                
 
103  *** 砂岩海辺 ***
 
鋸がたの褐色砂岩の
くらい梅雨のしらないあらいそを
あの五つの娘は
あたまからぐしよぐしよに濡れてあるいてゐる気がしてならない
わたしは小さい燭を
がらんとしたくらいこどものない室に置く
雛のそなへてある白い玲の棺のかたちを
わたしはどうしても信ぜられない
わたしは
傘ももたないで岩茨や灌木にひつかゝれて
うろついてゐる海月のやうにひよわいこどものことばかり思つてゐる
 
 
               
 
104  *** 杖 ***
 
わたしは
あの娘にさきだたれてから
めくらのたよりない瞽のやうなものを
このきらきらする濃い青葉のなかに感じた
そのやつれはてたものが杖をひいて
どこかしら迷ふてあるいてゆくのを金いろの白昼にみた
 
 
                
 
105  *** 箍 ***
 
杖をひくおもひは
このどうだんの緑からも滴りやめない
どつか
宇宙の成層圏のやうにつめたく
高いところにも
この小さい庭のかんなの花のあひだにも
波のあらい礁の上にも
あの
黒い瞳のかしこい娘と杖をひく老人とが金粉をまとつて
いちめんにゐる
それは玲とわたしのやうでもあるし
まるきりちがつた
美しいところの知らない人であるやうでもある
 
杖をひくおもひは
このどうだんの濃い翠から滴りやめないのに
もう
あの白装束の娘のひつぎの箍をうつ音が殷々とする
 
 
                                            トップにもどる
 
106  *** 田 螺 ***
 
おまへと
あせた手甲をした母と儂とくらい日田螺をひろつた
きんぽうげのさいてゐたそのころは
よけいに儂は貧しかつた
 
淡いおしろいをおまへの死顔につけるとき
その暗いはるのことがぢーんときた
おまへは
どつかの茫々とした草のかげで
五つのこどもの掌にはかぞへきれない
この世の泥のたにしを哭きながらかぞへさせられてゐるにちがひがない
 
 
               
 
107  *** 荒 磯 ***
 
もうたれも儂はよばない
わたしと
こはれた疵と
梅雨のあら磯のあるあかつきが
この娘の重いまくらにさめかけてゐる
 
いたい、いたい、哭かないでたゞうめくその小さい声に濁つた波が
 うちよせてゐるではないか
                    (娘・玲のため)
 
 
               
 
108  *** 玲 ***
 
もうたれもわたしはよばない
わたしとひとりの母と
雨のたゝくくらいこはれた田舎の庇が
おまへの短い一生を犬のやうにかこんで哭いてゐる
午前一時
杜鵑がまた玲のよわつた白い胸のところで重くないた
くらいくらい翠のなかから梅雨をもつたあのつきが
いたみひきつるおまへの小さなかほに
とこしへの金いろの滴をおとしにやつてくるのであらう
おう もうなにもかも生れかはつたやうに清々しく
雪のなかのやうにあたらしいところにゆけるのだよ
あのぽんぽの吐血もいたみも母もない
そのうだいてゐる眠り人形の冷たいつやのある別の一生が
おまへの知らないおぢいさんたちと
藪とか桑の畑をこえてあるいてくるのだ
いたい、いたい おとうちやんよ、お母ちやんよう
 
おうもうぢきになほる 玲
いたみくされるはらは雪がいちめんに積みおまへのからだを
きらきらとした雲のそらにあやなしてゆくものがこの冷える足のと
 ころで待つてゐる
いたい いたい
わたしはこの小さいけもののやうにうめく細い玲の首すぢから
まつ白い重い大理石を感ずる
この世のことばなききはみの大理石をうち割るもの
その力
その血縁をたつあたらしい力のまへにあたまをたれる午前三時
わたしはこらみんの五本目の注射針をおもむろに
くらい燈にかざす
わたしの力で買つたこれが地の上のおしまひのたいせつないのちだ
わたしは
きらきらとくらい翠の地平にひかる
玲の心臓を
さつきから鳥のやうにみわたしてゐるのにわたしの落ちた頬にはひ
 とすぢのながれるものすらない
                   (亡児玲への詩)
 
 
               
 
109  *** 菊の流転 ***
 
あわだつ大海をちちとして
雪のはてのないそらを母として
そなたはいまは寒くもないか
無生のものが
このとほり白い真昼のわたしの眼に
凄艶のいろと象して
とほくから映つてくるのに
誰もそなたの母だつてもう知らないのだ
(そなたの走つた野は茜に枯れた
 そなたの衣は截たれて次の嬰のおむつになつた)
わたしはことしも菊をつくり
母は次の嬰をおなかに持つて寒い厨に働いてゐる
 
大きな天の流転が
この小さい白い菊の宿にきて
そなたはもう露のなかに花蕊どもと目をさましてゐるのに
わたしにみえるものとては
その白い転生の重い花冠だけなのだ
(おとうちやもなぜこんか
 おかあちやもなぜこんろ)
のざらしの漂つてくる声ないあちらの声
菊に
たわわに映る永遠のとほい迷路
そこにどこへか白い迷犬をつれてあるいてゐる
もう幾万光年の後姿の亜麻いろの軟かい髪だ
こんな劫流残の真白い花をさかすものが
何万光年の向ふにあつたところで
わたしの穢れた眼にうつるのは
その恵まれた天使の像ではなく
あのくらい永訣の雨のあさの波のいろなのだ
 
わたしは黙つて菊の花を截り菊の花をつくる
 
仏心の光は
わたしから夙くに断えた
(きらめく地獄の鋏 たわわにおちる転生のこども)
そなたの帽子は売られ
そなたの衣は截たれた
なにもここに有縁のかたちはのこつてゐない
わたしは
あさから花の虫をおとし
つぎつぎのあたらしい天の流転の
この小さい白い菊の宿に薫るのを待つてゐる
 
 
  ※  劫流残 こうごうるざん 
            
 
110  *** 剣山詩篇 ***
 
    冬 の 花
 
もの狂ひとか
首かかりとか母殺しとか
その麓の暗い噂の時雨をこして哀艶に晴れ悉してゐる剣山
そのいただきの冬の花を採るために
わたしはとほく雪の離雲の間を来た
 
    立 つ
 
雲樹や
まつ白い雪の縞の離情や
深々とした一月の天のいろ
粉雪が絶えるとどこからとなく再会のあかごのやうに瞼に生まれて
 くる
玉髄の山の悲薫をたれにあづけてよいのであらう
お前も行つた
汝もたしかにこの旭を知るところのないところにとほくあるのに
この浩とした雪のいろにその悼ましい蓮華座の光が宿つてゐるやうだ
 
わたしは一人不羈の東雲を浴び
あれら中心からぱつくり折れた大きな羅漢柏だとか栂とか
大きい蛇紋岩のさけ目とか
わたしの越してきた険しいところが
どんなに創世紀的だかそこに雪を冠つて暫く立ち悉してゐる
 
    回 帰 の 鳥
 
圓心破衣の天の寒さに何がのこる
わたしの地上の妻とか子とか愛人とか
どこからか群つてくる雪の駒鳥のなかに
はや薫はしく啼きつれてゐて
雪白の冷たい雲霧はわたしの腸を斑々と犯してくる
 
    白 日
 
わくわくと
あさは無名の山の雪の茫乎に起きた
雪の雫で
冬果のやうにかほをあらひ
あさ日のなかに耳を澄ましてゐる
 
光る雪の茫乎のうちに
にこにことわらつてたつてゐるものがある
嬰児のやうに拡がつてすぎてゆくものがある
わたしは眩しくてみてゐられない
 
 
                                          トップにもどる
 
111  *** 森林帯の群 ***
 
はねあがる礫と泥
鉛の密林とそこから栓をぬいたあらしだ
荒涼とした森林帯を渉つて
奴らは来る
ずたずたの重い雨合羽をひきずつて
火柱のない火山孔のあらい胸と
穿山甲のやうな疲労のこころの鱗を光らして
奴らは持場にくる
立ち枯れの白い巨木のしたから
風雪に崩れた共同舎から
石のやうな雨にたたかれて陸続とやつて来る
 
集団するとろつこに黙つて積みあげる千古の樺
かちんかちんと正確にうちとめる太いかすがひの握手に
はちきれる大自然の流刑囚
奴らはその木とともに埋没れその木の激流のはてへ流されるのだ
 
だだあと押出してくる晦瞑のなか
火の粉を噴いて身震ひする電動索引車
(奴らは
 さるのやうに流れる木材に跳ぶ)
圓錐にさかれる重たい山気のしたに吼える銀の蒸気
棘の眼をして叱るもの、喚くもの
くらい鋼と鋼と噛み合ふなかに大風雨の森林帯が
黒い鋳物のやうに走つてゐる
 
奴らは知らない
奴らは凍原帯の天のきれはしだけもつた流刑囚
奴らは肩のぬけた合羽を流れる雷雨と
黒く
身のふちを奔流する森林帯の外は何も知らぬ
だあつと吹きぬけてくる雨に天窓のない帽子どもは
驀進する木材の湍を夜叉のやうに飛んで弛むかすがひを撃つ
              (未定稿、或る森林鉄道の印象)
 
 
                  
 
112  *** 軽 唱 ***
 
    山 海 経
 
白い鯉がある
樗のむらさきの花がある
日光は千年のやうにつよく簡素である
 
山と海とのはてを思ふな
浪は浪の上を走り
山は山の上を走るものだ
 
ほがらかにさしかはす天地の十字をみたか
 
子はいつも福音書をさげて朝の室にくる
 
    生   活
 
白檜の木に慣れて行つた
こどもたちは瀞淀の危さに慣れて行つた
 
    翠
 
駒鳥の変囀に
桐の花さへたかいところに日を浴びて眠つてゐる
くらいほどの翠は何もかもの胡情をやすめる女の声が谿をわたつて
 滴つてくる
 
    座
 
うしろは峨々とした白大理石の山
向ふに劫をめぐる紫の太洋の奔騰がある
ここにわたしの幽かな一髪をつないで
日月のやうな紅歌を吐きたい
 
    麦  秋
 
濤のやうな麦秋の
鎌を砥ぐ杜鵑の舌や
紫いろにさかれる石工の鑿の焔や
わが六月は一髪の思ひもない
かうして天にまじはる橡のやうに闌けてゐる
 
    蚕  眠
 
蚕眠のかたはらに
こどもの守をして蒼蝿を追うてゐる
海山の志をといてしまつて
そこらの暗い翠につるんでゐるもののなかに
 
    螢
 
螢光は
病のおとがひを浸して悶々とする
さつき ひひらぎ
石菖なんどと
 
彼の訃も爽かで滴つて居た
 
    鳥
 
終南の陲の鳥だ
麦にかくれ
擣衣のそばをきらつて
たうたうとながれる翠にかくれる不如帰だ
 
    今 年 生 れ
 
それから行々子
蒼みどろの蕊から滴れた鳥と虫
ことし生まれの光と声はあどけなく哀しい
 
    暁
 
月心おとろへて
露は東からくる
伏せよ百年の弔詩
こころは菊のやうにたかくおごつて
指呼の緑のけざやかに寄せるを眺めてゐる
    ○
凡鳥
ひとり還る
    ○
一木一石のそのつながりのなかなのだ
研いて光るこころとは
露に濡れたる花と鳥
                (弔詩)
 
 
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113  *** 剣 山(続) ***
 
岩鳥は私の翳をくはへて散らうとする。尺の乱雲に似たわたしの        
盈虧・・おのれ天真の花蕊をわける虫となつて三十有六歳に何を体したか。   
   この深沈たる烈風の剣の巓を発して藍いろの南北の巒群を迂叙し錯
落し盤渦する混沌の水は杳として知るところもない。
恒雪に侵蝕された奇岩の波濤の雄大。十指の爪掌を合せて天をさす
浄眼無告の白い樹木群。その樹心に淅々と鳴る恒沙の裔の哀慟。
覆没し湮滅するかつての生の火口に風化する火山錐の凄ましい深沈
の青史の移動。(おのれはその間に何を見、何を体したのだ)
石隙のはるかな、かの瀑線に沿つて横さまに飛ぶ劫雲玉霧・・落墜
し須忽に奔騰し龍飛四散する驟雨群層の輪廻・・そこに示顕する削
剥せられた巨大な白象、第三紀層岸壁の憂魂の峨々たる垂直。
その杳かの雲襞にわたしの病腸を編む仄々たる野禽よ。わたしはど
こから来てどこの雲海に去るのだ。
わたしはそれらを飄々たる珂月のやうに俯瞰す。わたしに続く一切
の名聞、無量劫と環状風光とを寒い瞼に盈んでこの雄渾な大自然の
鋸歯の間に・・(わたしは一体どれだけの渦状花蕊を分けてきたと
言ふのだ)
 
わたしは幻の断橋をみる。朝暮にわたつてきたわたしの危ふい生の
痕を。雲海に漂つて須叟に没する怪しい大鳥を。
狂気して没した瞼の母。齢車の吐血してあやめに去つた嬰孩。惨め
にちつた諸々の髪膚の縷りを。鬼蜘蛛の糸のやうにからんで天地の
間に泛んでゐる運命の軌道を。
その禽々とした朝雲にげきとして塗られてある劫のながれの絵図の七      
彩を眺めてゐる。
噴きあげてくる石榴質の風伯の無限の虚しさに・・。
 
蛙鴉の尹語となつて没してゆく些少の人生の詩。この石灰岩の石面
にあせてゆくもろもろの情痴と闘ひの退陣の皺襞。
盤渦旋騰する白霧のしたの、恒沙にみちる血塗る砲火好虐の裔と
は・・。
殪れる沈む次の翳を窺ふ縣河滔々の黄雲、紅雲。
雲のみいつも離々と光りながら恒沙を撫し背裂し陸続とこの天剣に
渦巻いてゐる。
 
とある一つの石瘤に立つ野鳥の裂帛におくられて劫の雲泡に化する
諸々。
 (われは愛した。さうして死んだ)
 (われは呪つた。さうして死んだ)
エツクハルトの(小さき火花)
法圓に化するつぎの法圓の環。
たつたそれだけの像をとどめるために、東西の漠々とした地皺に狂
奔してゐるものこそ全て救はれた法華経のなかの人々でないか。
われのみ暗然として九月のさかまく巓の寒風に撃たれてゐる。
 (いまは下界の真昼)
この旱雲の朱いあとに続いたわたしの終局。この木兎の声のなか    かたすとろふ=ルビ
に潜るわたしの生の全部。ここに在つてここに亡い深沈とした原始
の翠に滴するわたしの存在。
旱天の亀裂におはれて野のなかの破屋に陰膳を据ゑて待つおろかな
もの
一月の的々とした梅花のそばに薫はしく去つた亡児の翳を宿した障
子もここからはそのやうにとほい光年ではないのだ。
地の眷、天の眷、この橡の樹心に皆陰々、仄々と啼いてゐる。
生も死もともにかへりともに遶るわたしの脳襞の狂ほしい太初の一
元の紅い雲をかれらはいつだつて知ることはできない。わたしはわ
たしの的礫とした骨の在処をこのくらい翠にレントゲンのやうに
感知する。わたしは鴉々とさけんでこの剣の天上を掠めるわたしの   ああ=ルビ
羽搏きをはつきりと囚へる。
                     (未完)
 
     しせき  盈虧えいき=満ち欠け)   げきとして    
 
                 
 
114  *** 野 猪 ***
 
われは
盲ひたる土偶の生れ
われの馬耳をうつものは雪と化鳥の裂帛と
大古の落木の非情の旋律と
われはかかる辺陲をたのしみ
かかる清奇の嗚咽のなかに自らの土糞の壁を塗つた
われは野伏から野伏の胸の間を軒昂とあるいた
われは霏々たるさながらの自由無上の雪白の紛乱だ
この茫と涸れたる涯をながれる暗い朱い原質だ
われはただ一つの欠けた白い牙をもつてゐる
    ※
石獣に似た隣人の壁からのぞく煌日
われらにもう一枚の蔀がない
われらの土糞の壁からは屡々青雪が洩れる
雪橇が素走る
われらはさうして天のやうに轟々たる快哉を知る
 
(謀反に謀反をもて蓋はれる鋼青の恒久
われら
かかるところの泥雪にうち罵られおのれの臼歯を成した)
    ※
われらは竹柏にちかき子を生し
われら 雪と 金泥の烈火と 欠けたる牙とより知らない
われらはいつも薤露を歌ひ
われらはわれらの枯れたる金泥の残圓に従ふ
    ※
子よ
 
火花となつてちつてゐる
この一餐の夕べの重い閑けさを
そなたらの雪の行方にわけてゐる
 
うれひは暁に暮にそなたらの襤褸のそびら
萬年の山のいろにある
われはただかかる雪の薫を負ひ光なきその闇目を閑々とあるいてきた
    ※
彼奴も彼奴も
すでに朱をひいてゐる
金泥の火は夙くに雪のそこになつた
    ※
われらそのゆくところの草のしたにあらしめ
われらこそ欠けたる煌日
われらこそ天地背離の大輪廻
われらはただ雪崩れる
われらはただ爬行する
われらは不毛の曠野をそびらにひき
われらはいつも青い野猪を胸に養ふてゐる
 
 
            
 
115  *** 断 詩 ***
 
落ちるままに落ちてゆく。
さうして溜つた地の涯のどこでも影を宿してゐる。
 
雪に紛れ
金いろの星に紛れ
わたしはいつもこごえた掌をこどもの双の紅い掌に渡してゐる。
さあ、どこからでもやつてくるがよい。
非情の鞭を鳴らす暗いこの世の漂雲よ。
 
わたしはお前でお前こそ私の胸だ。
おちてゆくところが
摩天楼の煤煙の一室であらうが、
雪の深山奇谷であらうが、
わたしの胸を冒してゐるこの寒い漂雲のながれは絶えることはない。
 
あらゆるものの終局が
寒い殷い雲の環になつて杳かにみえた。
外なるものが内にないこの身一つに凍りかつ爛れてゐる。
圓いおだやかな火口の裾野から
ひつそりと芦のそよぎに似たこの身を映してみると。
 
金泥の裾野
とほくからの霰に住んでゐる。
まあるい琥珀いろの眼をした鳥になつて
わがちりぢりの四大界の消息をあつめて青い玉にする。
 
ひとときの安らかさに縷めるこがらしの青い彫物。
わが背にかかへるのこりの雪景。
ここからいつでもわが穢れた虚空への羽搏の用意はいい。
 
いまは閑かなあられとなつて
蘆の筆にかきしるすこともない。
どこかとほい湖影ににた劃然たるものが
けふのわたしを領してゐる。
 
朱を含むけさの寒の花にそつて
そなたらの息は玻璃となる。
ちちは火をもつていつも朝々の遺書をしたためてゐる。
 
 
                                           トップにもどる
 
116  *** 凍つた大河(二篇) ***
 
    其 ノ 壱
 
凍つた大河のそこを
暖められてどこかの春の潮に合するだらう
わたしはどこの岸も知らない
ましてこの雪のなかの小つちやなこどもの紅い罅れた掌が何の涯を
覚ゆるだらう
目の限り
凍つた大河の凡てに含まれ流されるもの
いまはひそかにこの灰いろの粛殺たる天心の流露のさまに
紅深い思ひすら凝らしてゐる
 
    其 ノ 弐
 
瀝青の夜
小さな金泥の燈は凍つた大河のはてに護るものがない
羽をたしかに撃られた野鴨だ
朱泥の声をあげてどこかの寒い地帯からかへつてくる
昨日はもう一萬尺も雪のしたに沈んだ
一体この暗い眷の燈は何光年さきの不思議な星座の幼光なのだ
あつちこつちの雪に蓋れた断層からも
金泥の燈がちらちらし
ギヤアギヤア五位鷺のやうな嬰児の啼声がする
わたしはそこに青い澄みきつた流氷のやうな母子とのはかない夢を
 綴るため
凍つた大河をわたつてかへつてくる
                    (昭和十年三月)
 
 
                
 
117  *** 一月の花 ***
 
    一
 
一月のさくらさへ考へてゐる
喪ひつくしての涯から泛ぶものは正しく白い雪ではない
蕭殺とした枝にわたしはさつきから萬朶の花をつけてゐる
 
    二
 
すこやかに
ただ天地のこほれる愛にゆけよ
子よ
冱寒の瞼にいつもさくらの花さへ沈ませて
 
 
               
 
118  *** 村落断集 ***
 
一朱の無い日の飛鳥こそ奇哨の天をとんで全く楽しい
金いろの水樹を環らし雲煙の紫白を断つて
悠乎とその糞に傾いた巣と雛を忘れてゐる
わたしは暫時その艶冶な飛翅に呆ける
しかしぢき瞼のそこの果しない暗いつめたいものにぶちあたる
わたしは爛漫とした花に背いてきのふの縄にあたらしい縄を編みそへる
                  ・・飛鳥と縄・・
 
台所にはあたらしい蘆がふいてゐる
雪を炊いてゐる隙に・・
煌く湖心に蒼みどろを揉みあげる白鳥
こはれた竈の炬の卍はまだ寒い
溯つてくる鱗どもをおつかけて私のお河伯はどこかの青い濤にな
 つてゐる
何もかも零落つくした春の爼でさつきから影もみせず菜根を断つて
 ゐるものがある
                  ・・早 春・・
 
亡くなつたのは娘でない
あの白色の紋を散らした去年の花衣の丈だ
あいつきつと上潮にのつて泥の野川を溯つてくるのだ
そんなものは一人二人でないからな
ぢつと涙をこらへてゐると瞼にたくさん美々しくなつてくるのだ
                  ・・白 魚・・
 
氷雪を駈けて紅く凛々しくなつた奴
わたしは
この村落の蹠の熱いこどもたちから茫々とした星辰と魚と花のう
 ごきを習つた
飛鳥と時圭のなかに群てめぐつてゐる一切の肌の濃い凛々しい芳芬
 を
                  ・・運 行・・
 
ある時は
平べつたい無口な蹠のなかに混つて
青い麦の濤になつてしまつてゐる
さうして黄金の春光を耕して実に閑かである
                  ・・晴 耕・・
 
水萍のこの眷の淡い幸を尋めて
悽愴のはてに屯してゐる
光り須叟にして後になる彩雲の人生をどこにかこつたのだ
この邃深におびただしい花をつけて爛漫と乱れてゐるものさへある
流れは雲のなかのやうに山脚をめぐつて杳かに
哀艶の彩のなかにひつそりと啼くは越し方の老鶯である
                  ・・非情の奥・・
 
雪を濾し落穂を糊し
ひたすらに土耕の輩と眇たる霊を賭けて来た
わたしは一族の塩つからい涙でこの深い緑の茫乎を潤してきた
                  ・・ 一 族 ・・
 
雪樹に爽と声がある
蘆荻の盡く村落のほころび
花はあつて現人の艶めかしい裾も紫閃もない
崩れた石門は開いてゐる 野伏りと河禽のために
落ちゆくままに桃桜は沙洲にまかして既に源では大雨と疫病がある
                  ・・廃 村・・
 
わが柱は
蕁草にかくれてゐる
わがこころは金の穂のやうに見えぬ地平に靡いてゐる
                  ・・秋 居・・
 
藪を払ふと石ころがでる
石ころを除けると虫がつく
花は実となるために護るもの
涯しない闘のなかにその群は無言を深め生一本の樹木の相を照らした
飢じい時飢じいものだけに判る涯しない和解の煌を
沁々とその各々の樹心に吸ひあげて重い雪をはねあげ
石ころの多い平原へ平原へとその開墾の軌道の枕をたしかにうちと
めて行つた
                  ・・樹 心・・
 
よく刈つたあとは落穂に気をつけ
雪となると藁の心配をする
たつたそれだけのための光ない荒野の青春をこの根つこ
この種のためによく埋めておく
そこから満目のあとの沸々とした萌がくる
                  ・・堆 肥・・
 
截つ
截たれる
たつと天蚕糸のやうに引いた呼吸
躙寄せる一髪の凄気に爪立つて奴をたほすか殪されるかだ
そいつがかんかんと凍るところを黙つて耕ちかへして平原へとたし
 かに食ひこました
                  ・・呼 吸・・
 
青き麦の穂波のひたひたと寄せて
爽かに天地の霊釣るものこの山の壁にひとり
                  ・・ある一刻・・
 
星辰を枕として
落穂と白雪を炊ぎ
ひたすら削げた雙脚に鉄鍼をうち
奔馬の湍をこえて石を砕きこの奇絶の天涯に類寡い菊の花を彫つて
 ゐる
                  ・・紋 章・・
 
花は
ひつそりと七ツの子守のお河伯に散つてゐる
あれは藤蔓を噛んで泣くなと揺りあげてゐる
どこの深い暗いところにも夕焼のやうな花があり
乳のあがつたあかんぼは
臥してゐるひしなびた母のふところを火になつて喚いてゐる
花はひつそりと眇で応へてそらの夕焼から散つてくるらしい
                  ・・夕 焼・・
 
瞼には疲れた夕焼
精一杯に生絲をひいてゐる
水は暗く生絲の光を何春秋もまはつて風樹を残して去つてゐる
                  ・・山の母・・
 
みそつぱは
花の暮までうたつてゐる
谿の深い烟に歌は何だか判らない
乳の涸れた嬰児は火のやうに夕焼のなかで泣いてゐる
だが
うれしいものは石の隙の雲雀の雛か
藪のちよろちよろ水の夕映か
どこかの暗いところにもあると歌つてゐる
爽かに広々としてどこからか山を越えても歌つてゐる
歌つてくる
ぼろをたれたみそつぱは藤蔓をかんで胸を張つて歌つてゐる
                  ・・歌・・
 
藪ひとつ
雪は淡けれどひろきところ母のおん墓あり
                  ・・墓・・
 
握つた一せんは溝萩の花にした
こどもなんど埋けて仕舞ふとまつ新な放鳥なんだ
濤がさらつて露のひまになつたと思つて
夕湿りの沙をふんでかへつてきたが
                  ・・しらせ・・
 
娘はとうから板のところで冷えてるんだ
その癖
石つ垣からママをわけて・・と来るのだ
そんな思ひに刺されてぷいと横を向くのだ
亡くした罰で妻も暗いところでまだ黙つてこみあげるものを拭いて
 居る
注射をしなかつた藪医者を恨むわけのものではなからう
どだい八方が狂つて塞つてゐるのだ
死んだ親不孝の奴そこらの頓痴気の奴は一人二人のことではないと
つんと蒸つ苦しい天を向いて黙つた
                  ・・悪 夢・・
 
 
                               
 
119  *** 沙 ***
 
花がまつ白く空気がひき裂くやうに青くつてこの滅んでゆく村落は
 いい
沙と思へばどこでも光れる
もうどこへも帰らん
石のしたには魚がうぞうぞしてゐるしお金なんどなくとも菜つ葉な
 どでどうにか暮れる
眇や唖の真似で暮すよりこの歳になるとさつぱり内蔵のなかで物
 を言ひたい
どこにもある沙のなかに堂々と頭を突つこんでゆきたい
おれにはこの石つ垣のこはれた滅ぶ村落が きりきりのところへぶ
 ちあたつてさつぱりとする
 
 
               
 
120  *** 樹間日誌 ***
 
    作 品 1
 
とつぷりと露のなかで寝て醒めはてるものがひりひりと曠野のこの
 身を疼かす。
霜と雪とを吹きこませて嚴と立つてゐるもののなかに、
あるときは瓦礫となつて暗いところに潜々と霰をうたせ
あるときは真新な雲の息に半身を任して
そこから樹木のやうに深々と立ちはだかつてゐるときがある
 
    作 品 2
 
あつさりと金無垢の情なんど残花の風にまかしてやつた
萬のこと放つた鳥となつて身裡がさつぱりとなつた
藁を葺いた
雪を重ねた
どこにも樹は樹で一本でしかない
轟いて去るものは無量である
 
    作 品 3
 
樹々にかへつて
鞦韆のこどもらの夕日を共に振るために
安らかな風樹の瞳を病母の瞼に閉ぢてやるために
濤を負つてかへつてきた 朱を流す夕焼の船を
 
堰門は落ちて昔の侶の水が潜々と鳴つてゐるところ
石と樹とを回つて鳥がどこの涯にもちさちさと萌を楽しんでゐると
 ころ
 
暗い漁に痴け果てて風樹のなかに没えやうとする
 
    作 品 4
 
いぶせき樹々が花をつけた
雲のつばさが破屋の棟をひつかけて息をこらしてゐる
勾のない人形どもをかざつて啾々の思ひを雲に託さう気だ
露のある花でどつぷりとこの鼻の欠げたのや肢のもげたのをかざつ
 てやれ
そこらの暗い潜々とひそんだものをこの天の仮の像に見するな
 
 
                                           トップにもどる
 
121  *** ある雪山の思出 ***
 
木から木に泊る鳥のやうに
太虚の雪山にあれば
私だつて一苔一石のなれのはてだ
石のおちる陰々たる殺気を
かのところを知らない行乞の旅の癩者と分け
 
終夜火をかこみくらい曙を焦がれてゐる
    ※
神韻と霽れた大雪風
金紅の曙が
ひたひたとこの身吸ひよせるやうに満ち
わたしはそらに吹きのこる鎌月でしかない
 
だのに流浪の癩病みは雪鳥のやうにたかぶつて日を拝してゐる
どちらが一体どちらなのか
青すいてくる虚空に 淡雪をわけて会釈を交したのは?
    ※
亡いこどものために
 
金紅のあけぼのを拝して雪を供へる
    ※
人生不惑にちかく
凍つた金泥の巻状乱雲にこころときめかし
或は
ふきあげる大雪烟をさながらに
わたしはこの晶光の塊のやうなたかい雪山に何を欲してゐるのだらう
 
 
            
 
122  *** 渦 ***
 
借れるだけ借つて雪を消し雨を叩いてゐると何時の間にかとうとう
こんな芦だの泥白柳だの茂つてゐる寒疎な村落の外れに流れついて
ゐた
私の抵当には重い妻子と底翳の老母だけがのこつてゐた
 (最後の夕日が石山にちかちかしてゐるのに儂の旅の荷は途で押
 へられた)
 
「こんな寒みい所さ嫌だア かへるべ かへるべ」
こどもたちは吹雪の晩など何か闇いものに怯えて儂を責め哭きやま
なかつた
儂は仕方がないのでその女童を負つて古いランプを持ち
「かへるだよ かへるだよ 仏さまのござる所へかへるだに・さ寝
 るべ 寝るべ」
村の辻に吼つてゐる落葉松の枯枝のしたで途方に暮れて仕舞つた
沙だか雪だか劇しく吹きつけ ついランプを落して毀した 肩の童
が火になつて喚いた(故郷の菩提所も真黒にちがひない)
雪をさなづりながら拝むやうにかへつてみてもまだ家主の畳を敷い
てくれない氷の板の間で啾々噎いてゐるものがあつた
儂はひとり灯をとぼしつめたい泥壁に故父の写真を立てた
轟とこはれた天井まで鳴るのはちかくの大河のうづであつた
目をかぎる泥白楊とうづまく雪鴉の一冬
甲羅をとられた石蟹となつて顫へながら越す
 
こどもなど何といふあどけない鳥や虫だらう少しの朝日をそこらの
蘚苔の石垣にみつけては驢馬の真似をしたり
蝸牛 雨蛙を掌であそばすやうになりそこらの固いえぞにふの蕾を
綻ばせた
さうして沙塵の絶えた遠くの海の 鱗 のことも言ひはしない
儂も形のよい水石を拾つてきて売れない石印を黙々と鐫つた(儂の
故父は貧しい田舎町の零落れた篆刻師だつた)
妻はそんな日荒れ壊れた 竈 を繕ふのに暮までかかつた独活、ぜん
まい、石伏魚の ごつた煮を供して呉れた
童らは初めての金いろの眼をして罅れた皿を叩いてわけの判らぬこ
とを歌つた
 
儂たちは海から溯つてきた季節外れの鰊のやうに戸惑つて愛嬌を重
ねた
葦の芽がどろだらけの釜屋から吹いてきたのにも大騒ぎをした
雪どけのうづの照り返してくるところで儂たちは初めてのわらび餅
をちぎつて春を待つた うづはたくさんの流木や家畜の死体などく
るくる巻きつけながら
目の前の茫々とした磧を溢れてさがつて行つた
眠らない濁つたうづは各々の飢じい腹に白むころまで鳴つてゐたが、
儂らは何となくいそいそして暁紅はやくあがつてきた筏師に茶を出
して奥地の雪どけのことを聴いた
 
花がちらとさきそうになると
女童は泥雪が劈痕になつて残つてゐるとほくの火山のうねりを指して
かへるべかへるべと頻りに亦儂のひよろ長い肩車の上で泣きじやくつた
故郷は鴉の低くちる反対の日没のほうであつたが無心なものはもう
知らなかつた
 
うづは日増に濁り菰に包んだ山羊豚のながれるのはまだましであつた
なかには白い牙をむいた骨だらけの何かわからない野獣の死体もあ
つた(夜は吼える水にとほい火山の焔が映つた)
うづは儂のうら庭のところまで押してきてそこで一日中きたないも
のが澱んできりきりとはてなく舞つてゐた
……と残つた寒鴉が不気味な卍をつくつた
 
かへるところなどない死んだ家畜のやうなくさつた臭をたてる村の
人たちのなかに
儂も終日白い腹をかへし鴉を飛ばせながら沈んで舞つてゐる外はな
かつたのだ
 
そのうちどうやら石印鐫りの儂も 三度堕胎した村の跌の娘と野呂
間の叩大工とを取りもつて貧相な花嫁車のあとを鹿爪らしく酔つて
従いて行つた
儂のあぎとも もう雨にたたかれる畝の茶馬の恰好をした
紙漉の妻は大口あけて村落の魚鬻の婦と口論した(無論鰊の内蔵
をまけるとかまけないとか鴉のやうな掴み合ひだつた)
儂はその濁つたうづのなかに浮游の村人白い腹をかへした家畜の死
体 朝夕の芥などときりきり舞ひながらどこかの 瞽の海へ押され
て行つた(日に一二度の地震は火山のはるのちかいことを告げた)
 
うづはもう示票の危険線を越して夜も昼も轟きは高くなつた
儂らはそのため幾日も眠らなかつた
 
吹きちる火山灰に連れて戦の噂が拡がつた
だだつぴろい外輪山の裾野から火山の鳴動らしく聴いたのは野砲隊
の実弾試射の響きであつた
儂らはその鉄の欠片を拾つて魚と換へた
    ・・   ・・   ・・
皹 には焙つた一文のかすがひ膏を塗つた女童はひいひいと痛がつ
て哭いた
「さくらの花アどこさ来よるべか?」と眼のあがつた底翳の母に
女童はよく尋ねた。
「田ン圃んなか来よるべもな……」と老母は女童を負つて油紙のや
うな日暮の破障子からどこかへ古い手毬歌をぶつぶつ歌ひながら
蹣跚いて出て行つた……
 (その老母も泥白楊の翳にうづめた……)
そのひ弱い女童は真夏の劇しい吐瀉で洸るところへ行つた
 (儂は洪水あとの茫々と灼けた磧から大きな円い礫岩を拾つてき
 て忌名を鐫りそこらの 鵲のとぶ黒松の根方に埋けた女童の上に
 据ゑた)
灰色無尽の鵲を攫ふ寒い白乳雲が
亦褐いろのうねうねとたかい火山帯をどこからか走るやうになり
かへるべなかへるべな と儂に帰郷を勧めた小さいほとけはふるさ
とのほうを向いて劇しい沙に吹きつけられてゐる
 (黄いろ塵でどこもここも昏くなる日があつて儂は一つの楽しみ
 だつた石印鐫りの仕事をさつぱりと捨てた)
その暮に休火山の大爆発がおこつた裾野の移民の一村が灰にうづま
つた
焔の朱の反照はそこらの吼る落葉松林にかなしく光り大河のうづの
音に今年は妙に寝つかれなかつた
 (儂は吹雪の夜の毀れたランプのことをひつそりと思ひ出した)
     ・・   ・・   ・・
生つ白い陰の寒さのなかから飛んでくるものは
古い新聞紙の切端だとか動けない蛙を啄きにくる鴉とかで村落のは
るは今年どこもまだ風をひいてゐる
儂は妻と古綿を雪どけの日向にたたいてしづかに腹のなかの次の
嬰の初衣の支度をした
 (うづはとほい地の底からのやうに鳴つて儂のねぢれた渠を震
 がした)
とほくちかく濁つたまま素絹の光を広々と波うたせてうづは穢いも
のと次々天末をさがつて行つた
 
 
              
 
123  *** 枯野日記 ***
 
亡くなつて
一銭にぎらして埋めたら
ぢき黒鳥などがさわいでゐる
磯から拾つてきた大きい円い礫岩を一つ据ゑた
    ※
蒼いそこのない月をわたる鳥の
荒磯をのこして雪がくる
    ※
茫と
あかい螟蟲のあとの枯野と
はねつるべをかけるあたらしい雪白の北風
づぶづぶの諸味臭い僧が来て祷つたり
根太がくさつておちたりした
こどもなどから鳥の性のもので
樗の枯杖でこけこけ寒く啼いた
亡くなつたののお古は截つてつぎの腹の嬰の襁褓になつた
あいつの走つたのはらにはもう朱墨いろの野火があがつた
    ※
たらないたらないで晴々しく構へて
どつかり穢れた雪だるまのやう清々しとる
閾からたれ一寸も来ない
根太をあげたところでもう嘘の種のない四方無限の雪風だ
おれの肌もわれたし涙を拭いてる婦の肌もわれた
    ※
からからと朝ごとのぼるつるべのつらら
その軋の億萬辺の唱へに
おれもからからとわらふ
婦も盤若の青い眉をしてからからと朝ごとにわらふ
    ※
お腹が
さけさうに円く突出ても
野風呂の水を汲みこんでゐるし
もうなにもかもごみ溜の旭のうしろになつてにこにこわらつてゐる
野中の晴々とした雪の妻だ
あれの繭のやうな鈍かな頭の上を真白い鳥がかけてゆく
    ※
おれはうつむいてさつきから
一千年もさきの地上のことをときどき熱く考へてゐる
あれは蒼い顔をして亡くなつたののお古を
次の腹の嬰のおむつに截つてゐる
あられが真昼の寒い瓦をうち
金のようにいきいきと重くしづかになつてきた
 
 
               
 
124  *** 室戸灘附近 ***
 
万法流転有情悉皆肢体離反の沙の時限を吼える濤・・ここに埋つて
裂けてしまつた漁村の数々がある。帆船がある。
(一つは崩潰した路にのつかつたまま行路の無宿の不思議な宿にな
 つてゐた)
 
天下一の荒灘・・青鮫の横行濶歩する室戸灘。
 
けふは榕樹、橘の枝濃く霽れてどちら向いても蒼茫と鱶の顎のきか
きか光る黒い印度藍の圧倒だ。
ここらの浪の屈折紋はとてつもなく大きくつて紫泥や金泥の龍のや
うに次々に脱けあがつて凄い。
それらの巻絵がさらはれたとき真白い貝沙を一直線にかける千鳥は
とても岸にゐる鳥の類でなく象徴文字の形のやうに怪しい。
ぢき轟いて奔騰する白い汐霧に揉まれてみえなくなる・・あるひは
そらかける美麗な縞魚の類かも知れない。
 
亡き詩客滝川の褒めちぎつてゐた龍飛萬年の大きな岩の錯落。
どつと押してくる潮の白玉楼のしたであれの海の血の詩が鳴つてゐ
る。一奇だな。けふは地獄の釜の蓋のあく盂蘭盆大陰七月十五日
・・倒懸の火焔苦の救はれる日だ。
 
 巖礁を伝へば
 岸の窪みにわづかなる水溜りあり
 いつのほどか来りしを知らず
 縞模様美しき小魚住めり
 荒海の浪の音真近にきこゆるに
 小魚ら
 嬉々としておのれの世界に生きてあり
                 (滝川遺稿)
綺麗な縞魚になつた・・水脈のあとにのこされて無上の天地を岩の
隙間ではねてゐる。
会ふてゐるのか、離れてゐるのか、もう何もかも綺麗さつぱりとし
たこの現世の花鳥介の絵になつて嬉々とした声が松籟にまじつてす
ると思つたのは、
若い橘の紫のうつうつとした翳のせゐであらう。
 
とにかくおれの喉はかわいてゐる。
そこの岩壁を翔る海燕の翳のくつきりと濃い真昼を裂いておのれの
乾いた喉仏からも紫の火の玉がとびでさうだ。
 
深沈と闌けた岩畳には何百萬年が腐蝕し
何千萬年の白濤の劫が鱶の口をあけて待つてゐる。
 
この世の泡の錦絵を
彫つてあるく蟹行人・・炭酸石灰の遺骸の雨の堆積物(珊瑚礁なら
この印度藍三〇浬の沖に沈下してゐる。)・・俺と、それから砲火好
虚の裔の横つ腹を 抉つて当住不断の 口をあける 室戸岬の風濤の葬
楽。
無明の闇の鱶の綱の鼻さきをひん曲げて夜も昼も吼えつづけ真黒い
時を呑吐する絶体自由の真白い奔騰と突進。
この蒼黒い風景の突端から直下百尺を鉛のやうに落下して青鮫に舌
うちさせた青年があつたさうだ・・まるで足の痺れることだ。
そんな鮫の内臓をもつた若人にちよいと惚れて俺もぐらつく石の反
射に身をかがめてぞつとした。
黒龍魑魅の衝つところ渦まく絶体自由のあるところ、首のなくなつ
た青年たちは来給へよ。正に自殺も日本的だ。
    ×
青い玻璃飾のビンロー樹の疎らなところ、
さつきからぼりぼりやつてゐるのはこの旱天にほとけをさがす癩の
夫婦だ。
怒つてゐるのか、泣いてゐるのか、この世の浮草の表情の襞はとれ
て黒い洞がこちら向いてゐる。臍のあたりまで犯した火雲のピラミ
ツトは崩れたりさかまいたり、あたまのホータイの濃水まで真珠い
ろに焔えさかつてただ肉体のそこのおとこが女の悲鳴のやうに呼ん
でゐる。 ・・傾斜の崖の噎ぶ汐霧・・。
 
一文だつて
もう憐愍のない僻遠の黒い太陽光をよろけてきて女体馬首のほとけ
の情に生きのこる裂帛の構へは燦として目もあてられぬ。
 
白雨はもう鱶のあぎとをはなれたのだ。
沖から黒い束になつてそのむくれた夫婦の跛を犯してゐる。
黒雲礁・・。
こどもの髑髏のあがつたところを呑みこんだ白い龍は軈て断崖のそ
こから逆巻いてそこらの磯松の烏を叩きはらつて沛然と来る。
おれも首のないこどもも癩病も大きな天をささへる鈎形の岩の隙間
にひそまつて真黒い幽明界の庖哮を聴いてゐる。
    ・・   ・・   ・・
烈日碧く三界にあまねく
馬頭観音は石に熟眠してそこここの美しき磯魚の遊泳に囲まれたま
ふ。
これも安らかにほとけの旅の眼をとぢる天刑の病の涅槃の夫婦、
真上の青い巻絵のそらを程よくととのへて恒河風に茂る夏の橋の枝
やがてそこらの同病の二三鳥も美しい濤の射光に腰からしたをきら
りと時劫のなかに彫られてしまふ。
 
 
               
 
125  *** 白 ***
 
ごたいを窄つ白い寒い渦の曲線は煌くものを填めながら
どこからでも圓融無礙に湧いて押してくる深い雪山にきた
 
紫の潭
烟のやうな奇石
さく裂した雪後の石壁に荊棘ふ離雲劫雲
杳かのはるをさけぶ深とした喉の朱い転鳥
 
何でもかでもこの矢立のはなつ紙にかきつけるものがたのしくて
凹んだ三十余才の天が隆となる
渦 そのうづをみてあらば真青い雪のうづが病の胸をおかし鶺鴒を
とばして
どんどんそこらの知らない谷ごへおちこんでまたあつちの谷で鳴い
てゐる
それで
ここらのきらきらと虹をさす泡となつて
何もかも放鳥といふていだし
もういまさら一重になつた怒も笑ひもない
金玉玲瓏とした重い濤がぶちあたつてかへすだけの一生
 
しんと何千萬年もこの深山の大ぞらへ筒ぬけになつてゐるまつしろ
 いものが
牡蠣殻のやうな小さいこの身をぶつ浚ひ
またさらさらした雪になつて霏々とおちるのだ
 
 
                                            トップにもどる
 
126  *** 火 ***
 
ぼくは端書がなかつたのでいつかの古い旅の阿蘇の火の絵はがきを
 出したが届いたかね
そこのだだつ広い外輪山といふしつとりしたところに立つて
ぼくはもう一度あらゆるものを濃やかに花鏡のやうに眺めてきたい
 と思ふ
そこでは僕は草を喰む一匹の馬となつて結構だしそこらの沙のなか
 に光つてゐる一粒でいい
ぼくはぼくたちの今うたつてゐるところをしんと劫遠の火に焙り出
 してきたい……
 (ぼくはいまこの寒村の雪のなかに火をたいて菜葉の夕餉を待つ
 て跼んでゐる)
もう庭石のところが紫いろに凍つて暮れてゐる
 
きみにもいふことなどあるまい
ぼくにしてからあの雪の貼りついた奇石になつてるきりだ
火はあかるくきつくぼくのとがつた頬を烈風のがたごと鳴る罅れた
 硝子戸に赫させる
僕は静かにこの地のそこに続く大阿蘇の火を思ふ
零落の玻璃戸に映る火は昔よりもつと赫い
ぼくは千年もさきの阿蘇の火がどんなにだかさつきから馬鹿なこと
 を重たく考へこんでゐる
 
 
            
 
127  *** 微 塵 ***
 
くさまくらかくて帰るか
蛙唖のなかにわれも螢をとぼしかくて終らん
     ・
毒あるさかづきの主の召に
瘴烟を急ぐ夕日の微塵なれ
     ・
鳰くらきところのひとりにして
螢は
すでに胸を冒しぬ
 
 
                
 
128  *** 移 転 ***
 
空家の菖蒲に鬼螢がある
沙のひくいところ 蕁草にも残る青い斑々 露にしづれて
わたしは暗い半生の朱をひいた簿冊を焚く
情女は
さつきから梅雨の瓶に
何かの骨を封じてゐる
 
 
              
 
129  *** 亡 娘 ***
 
病の白魚のやうに
美しかつたが
螢さがしてどこまで私の河伯は行つたのか
乱れそよぐ蕁草にのこる螢
草のあちらは沙のはら
螢とばして墓を縫ふ梅雨の千鳥
 
 
              
 
130  *** 山 荘 ***
 
蒼蝿のいとなみに
わたしの薫しい積乱雲はかくれて仕舞つた
啾々と
朱をひいて
 
わたしは奥深いところにかへつて
蕁麻を腹にまきつける
 
 
                                            トップにもどる
   
131  *** 雨の灯 ***
 
花あやめ
螢とぼして
魚介小さく沈み
多情のほとけらも声をたてず
重たき雨の花びらにならびてわれも深閑の灯を截る
 
 
                                                         
 
132  *** 日 蝕 ***
 
花石榴の
かげをひつそりとこどもの棺がとほる
わたしはそのためさつきから婆々のやうに
打ち水をしておいた
 
沙の焔によこたはる石の多い漁村
悪い日蝕がもう始つてゐる
わたしは青い眼鏡をかけて三日月形の日輪を測つてゐる
                                                                                             
           
            
 
133  *** 金堂附近 ***
 
石灰山の
殺気に宿る鬼螢と
のきを傾けて
梅雨は
もう瓶の蛇酒を腐らしてゐる
あやめにさけぶほととぎす
金堂のそらにこもつて糟粕に酔つた仏陀が眠つてゐる
 
 
              
 
134  *** 白 菊 ***
 
鈴鴨のほの白く啼く闇までに
たわわな一枝をのこし
やうやく門をうづめた白菊を截つてしまつた
ほつとしてさざなみたつ広い枯はらをみてゐると
こどものひつぎを殷々とうつた闌秋が
あざやかに目がしらにさきみだれてくるのであつた
 
 
                 
 
135  *** 鶩 ***
 
噎ぶやうなたぎる思ひもあるにはあつた
もうかうしてふるさとの入口の土橋の霜を割つてゐるのだ
わたしは土瓶のやうなこどもたちと
朝の鶩を追ひながら水のないかはらに立つてゐる
鶩の性は鶩の性
そこの枯くさのなかにひりつぱなしにしたゆふべのたまごを
私の顔の黄いろな妻子たちが漁つてゐる
 
 
                                    トップにもどる
 
136  *** 鴨 ***
 
母をうしなつたこどもは
なみだにういて芒のなかで寝てゐたと穢い字で書いてある
かぢかんだその手つきをみると
私は薄氷をわたつてゐる手負ひのせつぱつまつた鴨を思ふ
冬はその糸の外れた帖面のなかでも鳥のやうにみだれてゐる
 
 
               
 
137  *** 金泥の愁 ***
 
沙塵にもぶられ
車馬に嗤はれた老石榴のやうな朱い傷口の疼きも
ぢきにさざなみたつ枯野にはめこまれた。
位牌をどこかへ亡くしたり
移りさきの雪のけしきを墨で描いたりした。
    ※
泥酔の千鳥に金泥の枯野ちるいたみ、
笛ふく千萬の甍のこがらし、
噫、故日のみ、かくて蒼茫たる襖の故日のみ。
    ※
貧巷のまどから、
おちかかる師走日暮のがらす戸に、急に
とほい夜の鶴の句を案じて
嬰のことを思つた。
一枚の債券ののこしてあつた竹林の荘の壊れ箪子から
かうかうととびだしてゐよう額の朱い田鶴
しるせ、われに老いさらぼひし苦力のちちありしと。
    ※
あかつきは
寒い構内にはいつてくる重い夜汽車の雪、
 
そこには遠いふるさとが湯気をたてては
ぢきつららとなる。兵匪の噂。笛をふいてるこがらしの鶴奴。骨ま
 でしやぶる背徳の疼き。
わたしは排雪車に耳たぶをうたれ
戦のうはさのあたらしい新聞の匂だけを買つて戻つた。
    ※
ぶらつと、偽きちがひとなつて
故郷の雪の竹林に隠れやうか、
淙々、滝の涸れずに湧くところ、雪ふかく、
頸の永い時間の鶴に唳かれて、
わたしはそこに雪の五尺の小舎のかたちでも立てやうか。
海のやうな茫ツとした金泥の哀愁に揺られて
わたしは一夜枯れた竹林を吹きすぎてゐた。
    ※
なみだういて
異境に茶のけぶりみるうからの忌日
とほい金泥の涸野におくつて
亡き誰彼と忌避けの盥を踏んだのはいつだつたのか。
    ※
北京からの友もかへつて
石だたみには戦塵の噂撤かれぬ。
遮莫、
われは黄泥のうからのみ案じて
煙たつ二階にのぼる。
    ※
銅貨にひかされて誰彼のわたる危い銃口、
大鵲の墜ちるにごつた甍は
もう粘土のやうな血の霧でかくれてゐる、と言つた異邦の侶よ。
かへつたら鴉の故郷の青海省の岩塩掘りになるといつた鋭い侶よ。
 
ここの石だたみにも金泥の愁噴く。
 
卿の痛烈な自由に偽せて
私も私の焦がるる黄江を渡らうか。
 
 

     ※ 江 さとがわ

 
                 
 
138  *** 村落断集(続) ***
 
    花
 
返照のなか耀かに花は在る
人環の鳥情を妬むことの何になつたか
重畳の山光の還ることのない蒼々に屬いて久しい
 
靉靆とした逆旅の闌春の深き目覚め
飢鳥は暁の湖心から白錐のやうに愁の臓腑を揉みあげる
わたしは朱の朝餐の魚肉を炙つてゐる
返照に蹉とした耀かな残生の花の七宝がある
 

     

 

 
    十  年
 
暁の榾火は高く瑪瑠を弾いてゐる
郭公は玉簪のやうな雫をはらつて蒼く啼く
越し方は
花であらうか雲であらうか
とどめなく
白日 千古の澄潭は穿たれて耀く雲に入る
 
十年の春雷は
切々と昨日のやうに闕けた切妻にはためき
花さへ衰残の俤の火を放つたが
我が日記には只 霰や氷魚についての消息だけがある
 
    春  雷
 
迸る春雷は籬の班竹を衝つて鏘然 陰々とする
花を炙つて独り暁に啖べてゐる
ここではまだ氷魚さへ蒼く籠つて
儂らの臼歯は窖のやうにがつがつしてゐる
火を陰にして青山に背き椎の花を炙る
さうしてつくねんと春雷に濯がれてゐる
 
    天  鳥
 
藍いろの陶に似た湍の石を立つ朱い天来の飛鳥
瑪瑠のやうな翳を刻して
圓囀は耳朶に徹つた
 
滾々と
暮春は厨まで溢れて朱火を爆ぜた
乏しい火を穿つて
はるかな蒼明の河心にまで旋舞する鷁のやうな見事な天の鳥
 
    青  葉
      埋火もきゆやなみだの烹るおと
 
掌ほどな汝の骨灰に
風信子ほどの花をさかせやうと
まだ竈いきれのほかつく白い陶を擁いて花崗の峠 礫轆とくだる
青葉に烹る杜鵑のひとときを
蒼い蒼い木霊にわかたうと
わたしはこんな花の過ぎた奥の淵まで来たのであつた
 
    蒼 溟 の 衢
 
草衝つてひととき告ぐる杜鵑のやうな声もあつた
白い雪のなかにさへ暖い闇もはためいた
 
山を亘り市を過ぎた
 
沙に灯すところ
蒼溟を衢として 今どこにも寄るべき残魄をもたない
 
 
               
 
139  *** 蛙 鴉 紀 ***
 
からだには
とつくに光の青ざめた朱がきらめき
青芒の班がざわめいた
騒然たる蛙鴉紀のなか廓落として
白玉のやうにわたしは落ちてきたのだが……
 
わたしは
絶えて天にちかい人還の薤露を聴かない
わたしはぢぐざぐの沙に灯して粘い霧の春の暁方を待つてゐる
 
   光 ほうこう?
                 
 
140  *** 沙 ***
 
凡そ
泥荻や
鳰にかこまれた冷い石枕の上の
螢のおびただしさほど
わたしも闃として唖のやうに意味ない光路に就くのであらう
沙の間に……
 
 
                                      トップにもどる
 
141  *** 俤 ***
 
一日私は亡失した故関の川に立つた
雲霧に絶えた深紅の日の俤が油然として水銹のなかにきらめいた
郭公が蒼らみの底で啼きわたつた……と 風雨にやつれた再びの私は
水銹に映る恍雲に悽愴となつた
花はわたしのうしろに万年の青い光線をつけてゐた……
 
 
               
 
142  *** 永 日 ***
 
つぎをあてた懐に
菫 ちさなど一杯入れ
こどもらと真紅の夕日をかへる
一千年も永い春の日であつた……
 
わたしは野の一軒家に煤けた洋燈をいれ
黒髪の小ざかしいひとりひとりの額に遠い花雲のさがるのを悽愴と
 見た
 
 
               
 
143  *** 野 火 ***
 
野火ひとつ
氷の青きおとろへや
朱を砕くひとら集ひて
とぶらひの鳥を放つ
 
 
               
 
144  *** 暮 春 ***
 
芹を濯ぐ
それがかなしい生涯の一つのしごとでもあるやうに
白い根を暮れがたまで濯いでゐる
 
 
              
 
145  *** 蛙 螢 類 ***
 
深として
かはづは はらわたのなかで
納得のゆくまで穢いわたしの腸を啖べながらないてゐる
ぢき 窪んだ胸のところでは
鬼螢が群つて光を曳くやうになるのだ
 
自分は暗鬱なこの頃
雲の上だか地の上だかわからないところにちつてゆく花を見てゐる
 
 
                                          トップにもどる
 
146  *** 稚 魚 ***
 
花雲に閉ぢて
蒼みどろの底へ何もかも流れ去つた
眼窩のそこにきらつく私の眼晴に
亦新しい泥川を溯つて点じて来る巨萬の今年生れの魚類だけがある
 
 
               
 
147  *** 繭 ***
 
降り灑ぐ皐月のひかりに
蚕も蒼天に繭をかける
 
どこかに白い絲をひいて天泉にうつつてゐる故妹
 
 
              
 
148  *** 篆 刻 ***
 
いらくさの胸
螢のおとがひ
ながらへて鳥の翳恥ぢ
麻をきて
わたしはいつもの篆刻を王雲に向つて始める
 
 
              
 
149  *** 臼 と 烏 ***
 
沙にひくく
あぢさゐいろのほとけ灯点じて
 
萩葛のなか
とうに西東知らぬ子の鳥は放つたのに
わたしは沙にひくくまだ秋のとぶらひの臼を挽いてゐる
 
 
                 
 
150  *** 侏 羅 紀 ***
 
         火を噴く島あり
         その焔萬里のそこにつらなりて震撼し
         大なる碧のうねりを刻む
         
         はてなき碧のうねりのかなしみを越えて
         人はその朱の島の火の招くところに焉る
 
とどろきの火口にちかき海の鳥、
その朱き侏羅紀の始祖鳥の乱舞の一羽となつて、
霾る死の熱灰を攀ぢる、
鎔へ、
あたらしい曙の象へ、
 
終にここにきた、この悪臭の紅環を葬る絶海の朱の鳥嶼に、
死の浄潔の白沙ながく曳く白昼の火口は高く崇く
はてない浄玻璃の碧のうねりの上に伽藍のない七宝地獄極楽が燦た
る口をあけてゐる、
 
はるかの碧には楽々とうねる鮫の青鋼の口、そらに霾る朱の雷霆
白雨にあけてどこも滴る景観だが・・
 
この身に遺るものとてはただ烈々たる悖徳の翳に汗ばんで崩れる
瘢痕のやうな劫の火山錐と
爛れた亜熱帯潅木の骨の刀林地獄、
さうして金箔を貼りつけたやうな不吉な炎々の油雲、
 
地は震ひ眼は霾る灰に晦むのに
而し、
躯は、いまこの最後の朱い天と地との豪奢な王者だ、
火を噴くさながらの朱の島のやうに雄々しく煌つて晦滅の日を知らぬ、
 この白亜紀層の島の根、このわれの遺伝天刑の疾の骨につづいて
 碧のうねりのそこの劫初の紅珊瑚礁さへ燦とする・・
 
碧の大瀛に濯ぐ劫初の火柱、
おおこの癩の躯裡を時あつて風洞のやうに衝きつける死の誕生の熱風
団々とはるかな沖に練つてゐる絶体流のこの躯の白雨の闇
還つては崩れ崩れては生れる碧と朱の裔、
 わたしは魑魅のこども、
 わたしは天の火の柱のこども、
 
膿みたるからだも
屈辱と傲との血の粘土でのたうつ卑しき地にはかへらぬ
 膿みたる地球と紅環を葬れ!
はてなき碧の濤に洗はれて噴かねばならぬわが信仰の火の柱、
ここにきて晦い昔もない、千切れた今もない
 ごろごろ落ちる火山弾(こいつが呪はれた地軸の裔の瘢瘡の痕だ)
たらたらおちる油汗、霾る轟きの熱沙、
 
どこかの地獄のそこに墜ちた一萬年も昔の百哩砲をうつ殷々……
おおどこかのそこから地鳴りして湧いてくる幾億の不安な叫喚の合唱……
侏羅紀の妖しい始祖鳥のやうに天翔る不安なそらの雷霆の翳、
 朱と紫の幻視と幻聴を噴きあげ、霾る沙の晦滅のとどろきのなか、
 
おお、
その焉ることない闘の灼熱鎔漿のなかに蠢くものを哭するな、
わが踏む岩漿のそこに鳴る焔の忿怒凄まじく
萬里のはての焔を喚んで、紅環は膿みて墜ちてゆく、
あらゆる時の覆滅の闇はちかい
太初の碧のうねりのあらゆる闇を蓋ふ日はちかい、
 
おのれはただ攀ぢる、霾る岩漿と死の熱沙を、
轟く朱の生誕の火の室へ・・、
 
 
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151  *** 鮮緑悲願 ***
 
この朝け
石を切るこだまの翡翠なし
かつきりと碧潭に落す鮮緑悲願のうつくしき紋章
妖しい煙のどよめきの刻過ぎて
ひとり煌々
もうこの僻陲の鮮緑には
おまへのもたない凡てが妙に篆刻されてゐる
 
 
               
 
152  *** 卍 の 歌 ***
 
        元始に神天地を創造たまへり。地は定形なく曠空くして黒
        暗淵の面にあり。神の霊水の面を覆ひたりき。(創生記)
 
始原のとどろきの 剥がるる白涙にもちかく
飢ゑたる石皿にわかつ愛憐の たぎつ幾冬の血や
 
霰の雲の吼ゆるところ
千古の風洞を巻くところ 血涸れ心遜りては蒼き雪を啖ひぬ
    ※
惨たる神の声を閉ぢ
石壁をただうがつ碧のはての咬み合う蚊
 
朱い狼煙は既にあがつた
はるかな紅蓮に逐はれる羚羊のやうな千萬の飢渇の翳の卍のみ
 
窖の暗い胸に凍つて燦たる滅びの瑪瑙を噴く
    ※
始原の火と
氷のとどろきを
莫とした遠雷の兆のやうに羸衰の胸に穿つた
 
愛憐の皓い玉を躙つて故関の嶺雪を越えた
(噫 老いたる雪白の凍る風洞の月日)
始原のとどろきは
霧氷のやうにこころのそこに燦いて
身は霍乱の鞭に爛れた主なき山河の家畜らと果ててゆく
 
薤露の歌の
そこここに朱の火をかざして殪る侶の影
碧の創生のそらの微かに望まれず
ただひたすらに羸衰の胸を穿つはるかな雷霆の刻
    ※
藍紫のはての凍る断雲に截られて
一鳥の声ものこらない無住の白凱々
(おおこの世のそとの白い金属風な眺めに来て卿の洸たる燐光の存
 在を知つたか)
 
ただ生きてゐるものとては
朱雪を噴きあげる蛇紋岩の啾々たる硫気孔の癘鬼
(はるかなる亡国の曙人を哭する轟々の聖マクカリヌプリの終りな
 き継起の雄叫)
 
この天に冲する朱泥の光環に寄つて
劃く淡墨いろのかへらざる寒帯火山の永劫の雪の曲線
 
 
               
 
153  *** 黒 潮 ***
 
            ・・滝といふ少年の記・・
 
かぎろひの沖べをすぎて
かぎろひのみ母となりぬ
 
風むせぶ梛の隠り葉
重波に沖や暮れぬる
かぎろひの雲のゆきかひ
繁ければ藤もこぼれむ
荒磯回の母の亡き宿
 
かぎろひの春にわかれて
汐霧の塚も忘れき
水錆の池にのこりて
みづ葵ひとり咲けるや
                  (母に寄す)
 
蒼鉛いろのどこまでも暗い薄紫にひろがる生紀風の雲と海との渾沌を
第三天国のとほい東から穏やかに膨れてくる美しい開闢の彩光
ところどころのそら、海、島、とおぼしきところにはまだ開闢の斑
な闇が残り、或は薄い薔薇をほころばせ
はるばると鳥もみえない北回帰線のそこから春をおし出してくる悠
久な黒潮環流の歌
 
カロリン マリヤナ フイリピン 南支 日本……
 
どこの涯の岸にもとけない千古の謎の紺の飛沫をあげて歌ふ
銃丸のあいたどこかの邦の青年の惨ましい屍も
この世地獄の三等船客の老婆の屍の一生の秘密も
美しい裙帯菜や昆布を纏はせたままで油鮫や葦切鮫の旅をよろこん
で歌ふ
目のないものには目と、耳のないものには耳と
それから奈落のそこの屈辱と死と、反抗と謀殺と
 
それら一切の甌穴を呑吐して急ぐ黒潮の晴々と愉快な旅の響き
    ・・  ・・  ・・
洞のやうな暗い息蒸れのする室に少年タキも眼をさましてゐる
暗い暁のうみは犇いて轟と鳴る
綿のはみ出た襤褸のなかに底翳の母も、牡蠣のやうな眼をして雨を
含む暖流のそこの(春)を聴いてゐるにちがひない
 
くさつた根太をも揺がす黒い環流の歓び……
千鳥の凍みる寒さはもうないが・・
重いめくらの母の乳房をいぢつてゐる少年にはその菫いろの夜明が
悲しい どつしりと暖い母の肉の巌の陰に白い牡蠣のやうにいつ
までも眠つてゐたい
 
縞魚、鯛、螢魚、昆布などの、虹や螢光色にひらひらするだけの騒
乱のない青い青い天国の郷愁……その、そこさへ微睡のなかで
さつき、タキは音のない不思議な火車にのつた世にも美しい碧の母
の眸をみた
 
かうしていつもほんとに美しい夕焼や、朝雲のある菫いろの眠の
泡沫のなかにタキは矗々と大きくその肉を増し綺麗な白玉の楼をみ
てきたのだ
 
油紙のやうに煤けた障子に轟くかへらない早春の潮
……どこかの燿く旅の海峡をこして対岸の白堊のいろにみとれてゐ
た美しい人妻の母はゐない
絹綿の帽をかぶせた一つの嬰児はゐない……
タキの手や頬は垢にひびれ、母は眠ることや日向に坐ることだけが
好きになつてゐる
タキはどこから流れてきたか知らない とほい氷のはるところに父
が働いてゐるといふことだけぼんやり火屋にうつつた雲のやうに知
つてゐる
タキには襤褸にうき出してゐる帆のかたちや海老のはねてゐる模様
がこの上もなく美しい……だが油垢に穢れためくらの母と暁のうみ
を聴くのは悲しい(朝になることはひつとりになることだ 朝にな
ると母の眼がつぶる 朝になると用便にはしつたり、どなられたり
する)
タキは大きな眼をあけて首を出す 剥げた襖の金いろの千鳥のとぶ
少年の蒼海は暗い
母の骨がきくつと鳴つて暗い洞の朝が盲母の白い眼に来てゐる
(もう起きざ、漁船が出た気な)
タキは家鴨のこどものやうに大きな掌で掴まつてゐる
白い燈台をまはる鳥の耀き
 
母はひつそりと莚に坐つてさつきから藤の花をなでてゐる
母はもうとほい翳になつた藤紫のそらに金いろの眼のない鶯をさが
してゐる
母の穢い木綿の盲目縞のふところは、洞のやうに陰々と梟が啼い
てゐるのに、油脂のやうな春の日光は母の、のこつた黒髪をながく
美しくする
かげらふのなかに母は時折、見えない針を楽しむことがある
そのかなしいめくらの継剥の仕事にはるは静かに更ける
タキはこの感のいい母のそばにうづくまつて北の氷の海や恐ろしい
海蟹と人取り昆布の話を聞く
母はそんな日、岬の宝塔院の、木ぼとけさまに似て優しかつた
 
紫紺の海の彎を
啼きつれてひらめいて消える鶸の気軽さ
深沈と闌けたはるの洪積層の巌の褶曲にいぢらしい岩蕗の黄な花
少年は偸盗のやうに紫深い藪のなかにぴかぴかする温い岩燕の白い
卵をもとめる
……うつろな底翳の母の喚ぶ声がそこの暗い珊瑚石灰岩の岩壁にあ
たつて碧のそこ衝つ響きに吸はれる
(タキよう……タキよう……)
(タキよう……タキよう……)
碧い黒渦の渦の上に今日も鰯をねらふ夥しい白い海鳥がある
 
父の音信はこのごろどこの鰊場からも届かない
ざつく、ざつく、南の黒潮のはての、盲目の若い母の胸に波うつて
ゐる氷の闇の音をタキはまだ知らない
タキはひとりでせつせと虎落笛をつくつて夕日に吹き鳴らす
退潮の沙にのこる朱海盤車のおつかない指をみつけたり
ちらばつた何かの白い関節を拾つてよろこぶ流泯のこどもの頬は
いつも銅いろに灼けてゐる
タキはバツタと雲を愛する
めつたに村の漁童とあそばない あそべもしない
海はどつかの野犬とふざけて沙にもぐる少年のお腹の上のも轟いて
ゐる
地滑りのてらてらした洪積紀の断層に噴く青い荊棘の芽はとてもう
まい 不漁の日の漁民たちの鴉のやうに食草に集ふならはしに闌け
て、タキの洗足の紋は次第に飛々に深くなる
 
海をのぞむたそがれの風洞・・そこから金いろの眼をした猫のやう
な蝙蝠が立つ
そ奴らが恐ろしい暴風をもち雨をさげてくるそ奴らは薄闇に不気味
な暗い羽搏をたてて、どこからか防風林のこちらの沙の陰に点々と
因果な朱い灯をくはへてきた
たまゆら点滅する漁村の灯を背にして、潮は鱶の腹のやうに真底か
ら、げらげら哄笑をする 轟と鳴る風洞の二重合唱の羅卒……どこ
かにめらめら焔えるとほい地獄の火雲があり、裂けて殞ちる天魔の
慧星の尻尾がある
 
……泥の海嘯が真暗い干ぞこの沖からむくれあがつて天に冲しなが
らこちらへ、こちらへ寄せて来る
どこからか風洞のそこを衝いて物凄く轟々とたちあがる何里もの火
柱と何千人かの人の慟哭するやうな響き
 
村も町もあとかたもなく吹きとばされ火と泥はそこらぢう大きな魑
魅のやうにのたうつて、泥のなかから灼け爛れてによきによきと突
きあげてゐる無数の獣めいた手脚の哀慟
それらはやがて大きな茸となり、ぢきにいちめんの枯れはてた砂泥
の葦の姿となつて
どこからか哀慟のする闇のはてから、あかあか、と金環色を舳にと
ぼした父の帆が暗い沙をのぼつてくるのだ
タキもめくらの母も泥だらけの爛れた手をあげて
 父ヨウ……父ヨウ……
と一心に喚いてゐるが、船は怪しい螢光の帆と舳の金環色のひかり
だけで、胴体も、父の姿なんどどこにもみえない
金梨地いろの冠光だけ、ぼんやりと天の一方にのこつて、いつの間
にか慟哭の声をつつんだまま
ざつ、ざつ、ざつ、と脚もとから泥の恐ろしい結氷が始つてきた 
そこらにとぐろ巻く大きなまだらの虎うつぼ、癩蟹、蜘蛛蟹、そこか
ら朱い口を腹まであけた猫鮫……いちめん気味悪い蒼い息を吐いて
追つてくる、めくらの母の姿はもう見えない・・タキはいつの間に
かびたびたした透きとほる傘海月になつて閻魔羅のやうな嫌な奴に
高い所へ吊りあげられても掻いてゐた
 
嫌な夢の海月はその日からタキの小さい胸に纏ひついて離れなかつ
た(蝙蝠つて、殺つた罰ぢやで)と底翳の母が白い眼をむいて、
あぶらんけそわか……と何かわからぬお祓をしてくれた
しかし、タキのはらのそこには何か、かちかちとかなしい菊目石の
やうなものが残つた
 
その日初めて腹のそこから、塩つからく、この身の小さい海月を揺
する千も万もの波音を聴いた
どつからこの切ないことはくるかもわからないのだが
松のやうにだまつて生き生きとしてくれればいいと思ふ
網にあげられた日乾の沙の海月はもつとかなしいわけがあるにちが
ひない・・とタキはひとりで決めた
 
磯礁はしだいに紫いろに燦き
鵜はすばしつこく潜つてはビイドロ魚をとつてゐる
朱いさんごいろの磯花を洗ふ汐の温みの碧を螢魚は、青龍蝦をおつ
かけ、銀鏡魚は裙帯菜の蔭から螢魚を追ふ
銀、紫、黄金と翠のとこしへの刺繍をひたひたと縫ひながら黒汐菩
薩は七宝地獄極楽のつきせぬ生死のあそびを嬉々として眺める
 
黄金を裏うつ紺青のとどろきに、生れながらの海のこどもはぢきに
そこらの渦に輪をかく白い鴎となつて仕舞ふのだ
タキは美麗な紫いろの觸絲をそよがせて微塵子をたべてゐる磯巾着
を不意に衝く 紫花巾着はおどけた必死の汐を噴き身を縮める
 ぼうずくらげと、いそぎんちやくと、
 ぼうずくらげがもつとえらい こいつはすこしもうごかない
タキは胸をそらして菊目石の巌をとぶ
 
恐ろしい天竺風の濃紫のそらと海
カロリン マリヤナ フヰリピンの珊瑚環礁を洗つてくるそのまま
の黒汐がひつきりなしに渦を巻き
底では何が生きてゐるのかわからない
東も西もわからない大きな海のまん中の海月のやうに飢ゑてゐるタ
キはどこかへ流れてゆきたくて仕方がない
めくらの母の手をひいて
(さう、このすばらしいおもしろい考へをはなしてやらう、
 きつとかあちやはうれしがるにちがひないざこひろひなんどしか
 たがない)
タキはいつのまにか黒汐のおばけにとつつかまつてゐる
耀きのそらの心にもえるあかいあかい、紅蓮がいつかこの子を黒ん
坊のやうに早熟にした・・
タキは巌からかけおりる
 
 
                
 
154  *** 黒 潮 (第二部)***
 
        ・・(華 鬘)・・
 
黄塵が耀ふ東南風にのつて白い泡沫ふく大海をこえる。
・・翳をおとすとほい南の噴火湾。
煙のやうにそらを昏くするものは、朱黝い大陸の戦禍と黒死疫の翳だ。
 
ひとり、ここでは天に噴きあげる群青と爍ける黄金の乱舞。渦まく
どぎつい黒潮に酔ひ痴れて密集する鱗の光と白い海鳥の絶叫だけ
がある。
辛夷、桃李は散つた。ほとけのやうに翳深いものが牡蠣殻屋根の戸
口を窺つて青葉のうれひを燦かす。たうたうたる水のそこにも土の
そこにも身悶えするいのちが螢のやうに息づいてゐる。
 
(へんどになつてゆきたいかや、合羽と頭陀袋かけての、怪火に嘗
められて舟の陰で泊つたり、野狗に吠ばれたり、挙句にや、癩さ
まに貰はれるげなに)
 
盲母はタキを脅す。しかし、かういふ盲母の胸にもちよつぴり、玉
蟲のやうにあやしいかなしみの蠱が除かない。開かない眼にも遺る
美しい棕櫚や梛のざわめきの風滝。鴻や白鷺はたかい菩提樹、樗の
新樹を綺羅めいて遶り、たれもあかい雲と雲とのはてない玉洞に見
惚れてゐる。さうして虹のやうに蕩けながら晶めいてどこかへ若い
日を墜ちたい。
 
鈴鐸が鳴る。鬱金、黄金に縺れて瑠璃蝶を飛ばし華鬘を開かす。
どこの花雲からこの怪奇な白衣の風雨に曝された漂泊の檜笠ども
は湧いてくるのか。
鰯やこべらのころになると、菜種花の紛紛する七宝縞のなか、狂風
にへし折れた磯松の貝殻道の曲などから、紺の汐の香を負ふて、猥
褻な偈を唱へ、気楽さうな天の上の歌を誦ひながらひつきりなしに
男女の組であらはれて来る。
即身成仏の一夜泊の木賃宿にはたのしい地獄極楽の閨が芬々する濁
酒とともに待ち無量菩薩の蓮つ葉なそらはけふも金蜜の滴れるほど
碧い。
 
(へんどに貰つてやる)と脅す盲母もこの金色の裕かな白衣の象から
(いとしや、まあ、御苦労なさるなあ、そのお盲で)
と猫のやうな声をかけると、施 に頂いた札所の紙の符呪札にさへ
(もつたいない、もつたいない、な、まんだ、な、まんだ)と啄木
鳥のやうな愛想の御辞儀をする。
 
白昼の貝殻沙を軋らせて、躄 車の垢苦だらけの羅漢をひく底のぬ
けた麦藁帽の童と襤褸だらけの婆、蒼蠅のたかる顔を繃帯した癩の 
若い鴛鴦らしいのもある。
肉桂の辛い根を噛りながら、タキは寺院の*枸橘のところから恐     *からたちかき
恐、盗視をする。穢れた白い笈摺に朱い卍の印判をいちめんに押し
たその躄杖をつく小父が恐い。何か怪しい雲の翳でも曳いてゐるや
うで、どこに逃げても追てきさうな蠑(ヰモリ)だ。
(あの腐つた箱ンなかにや、金無垢のお大師さまがござるで、石を
ぶつ童は臂が螻蛄になるちうて婆がいひよつた)とカメが囁く。タ
キはそのお大師さんの黄金の眼が虎うつぼより嫌だ。      
    蠑(ヰモリ)は鈍い。黄金の眼は雷のやうに敏い。      
 
 
(お大師さんは癩や躄のへんどさまになつて強欲なうちへ罰をあ
てる)といつか狐狸招の婆がいつた。
 
(歳末の晩、網元に小舎を叩きだされた癩さんの気配彼是妙なとこ
ろがあつた。母の黄疸がなほらんも、さうぞ)とうちの盲母に密密
話してゐたこともある。躄車の背から小便かけたゲンのチンポは毒
うつぼのやうに腫れあがるにちがひない。槍田圃に転つてゐる鼻欠
の地蔵さんのそばを通るのは何ンだか忌だ。
螢が殖え葦切がどろ川の上げ汐を呼ぶころ・・。
 
手のないもの、耳の片端削げたもの、顔のないもの、人の世の蝎、
、蚰蜒に啖はれたものは、後から後から、破籠、下駄、茶瓶な 
どの海の芥のやうに浮々して、船着場から、羅鱶、猫鮫などの生臭
い奴とごろごろこちらの陸にあがつてきた。
そいつらは緋房のやうな天竺葵に見恍れたり、月琴弾きの脂ぎつた
腰に觸つて猥褻な洪笑をした。生きてゐる幽霊のやうに畏怖られて
どこかの破橋の陰、狸祠の宿を借るこの世のそとの洞の眼には、皆
目、得体の知れない天衣千万億の白毫光が射して、飄々とどんな焦
熱の阿鼻獄のそらも楽しい胡蝶となつて翔びつづけてゐるやうだ。
 
茜染めのほの暗い泥水のそこにも燦々と華鬘の黄金の鈴は戦いでゐ
る。浜鵆の声かも知れない。不思議と今夜は浪の音が絶えてゐる。
タキは黙つて歪の煤けた火屋を拭いてゐる。盲母は粘つこい煙に噎
んでこはれた竈の蝙蝠のやうに蹲んでゐる。
(瘡の乞食は嫌だ。血膿の婆は鰯肥のやうでぴかぴかの眇がこは
かつた)
然し、タキは今夜何となく躄車ひいた童のやうに胸が痛い。
タキの清浄の肉眼にはそのへんろたちのゆく茜いろのみちが、な
がい絵巻のやうに映つてくる。
茜は洋燈の火屋にうつる、と、いびつの火屋にもそのたれだか知ら
ない不思議な三つの白衣が懐しく映る。
タキは見たことのない父を思ひ出してゐる。ちろ、ろ、ろ、と鵆が
浦の方で啼いてゐる。どうして気になる鈴の音だ。
鈴はそのまま泥にしづみ茜が、ちよつぴり盲母の蝙蝠の髪にのこつ
てゐる。
暗くなる。裏の洗場の菖蒲から燦々と、とぼる鬼螢がある。人魂の
やうにそこここにあかつてゐる。
(母ン、車んひかれた躄らあはどこん寝るぢやを)
(網小舎のぼろ網でも冠いて寝ぜ、泊めて呉れ手はありやせん、業
なものぢやぞ、なまいだア、なまいだア……拾ひんくるけに早よ寝
ろぞ)
亦とほい鈴が鳴つてゐる。海のそこのやうに
(ちどりかな、へんどかな?)
盲母のふところも寝つかれない。鈴のおとは消えたりさんさんと鳴
つたりする。こころが変に澄んでくる。不思議に恐いとも思はない。
青い天鵞絨の月光のしたを逼ふてゆく車がある。きらきらした昼間
の黒磯の海のやうでもある。臭い躄の父がいつの間にか金無垢の
仏さまになつてゐる。その顔を父だと思ふが、何だか胸が詰つてい
へない。
(このへんを撈=しゃくつてみろ)とタキに綺麗な玉蟲いろの網を
   貸した。 
撈つてみるときらきらした紅玉いろや黄金の龍蝦が網のなかに幾ら
でも撥ねた。
 
螢がどこからか舞ひこんできて黴臭い蚊帳に縋つてゐる……タキの
凉しい鼾が洩れる。
    ×   ×
樗の花がのぼり汐の琅かんの面に散る。翳に跳ねる今年生れの鯔。
土偶のやうに可愛かつた石灰採の女児が死んだ。てらてらの丹砂の
磯坂をのぼる二三人の石油箱。懸巣がその上の枝で騒ぐ。
今年は土蛙が多い。
(死人が断えんぞ)と狐狸招の婆が咳鴉の声でいつた。
龍神祠あたりの赤茄、錦茘枝の狂気熟れを狙ふ鴉の乱舞、蔓荊の花
が陽炎を吐く舟陰ではさつきから半裸の童らが喚きながら沙玉蟲を
掘つてゐる。
分校のたつた独の老翁は誰もゐない机の上に蛙の夢、昆布の青い幻
を画いてゐる。玉蟲いろの蜥蜴が窓から墜ちてきても土瓶はなかな
か目を醒まさない。窓に舌うちして逃げる河伯らがある。
(はげの土瓶が破られて……茶瓶のみづがなーがれた)
遊動圓木がぎいぎいたそがれの樗の青葉蔭で鳴る。朱い狐狸、黒い
狐狸があちこちに跳ねてゐる。
暗い部屋の剥げた黒板に大きな女陰が口をあけて真朱に笑つてゐる。
タキはこの芝天狗のなかまである。
蜻蛉飜の数字はこの芝天狗の粗い脳の網目から、どろめのやうにす
いすい逃げる。芝天狗は水に潜り樹に跳つて鞭をもつた老翁を憑ら
す。白痴の学校はいつも黒潮の渦巻が燦々として妖怪の天国のやう
に愉快であつた。窖に埋けこんである桃源の濁酒と梅雨の黴びた
畳だけが疲れた老翁を待つてゐた。
 
貯へが乏しくなると盲母はうらの村巫の婆のところいつて狸狐憑に
なる。この虔かな邪神のお告げが、その日の米や塩の補になつた。
祈祷の日には巫女の盲母はあさから垢離の水でふつくらした肉躯を
濯ぎ薄い白粉燕脂を刷いた。女鬼のやうに婀娜にかはると恐いほど
綺麗だ。タキはこの憑きものの手を曳く。
 
青紋椿象の湧く霖雨の暗い川端の河伯や芝天狗と悪戯てゐた八主の
恐い狐狸神が火のやうに合掌の手を振る盲母の背中にとんでくる。
村巫が一心に経をあげる。神棚の燈明が生きてゐるやうに鬱金に揺
れる。ゆらゆらの光はきつねがゐるからだ。
何かに憑かれて血相かへた盲母は土偶のやうに凄く美しい。タキは
身震ひして供菓子のことだけ考へたい。
(はちすさま・・この漁婦の病は死霊の祟でござりますか、生霊の
祟でござりまするか。お好みのもの何なりと差上げまする。どうか
人救けにお告げ下され)婆の眇が山椒魚のやうに底光る。盲母の
合掌が火のやうに揺れて室がづるづる気味悪く鳴る。どこかで鼠鳴
きがする。
(ふう……ふう……戌亥の方、向ふ一丁あたり、犬神憑の後家の生
霊の祟ぢや・・供へは赤飯二升ほど結飯にして、封じ祈祷をすま
せ。竹薮の辻に申の刻に置け)
たらたら油汗をかいて、憑言を一心に口走る盲母の背に妖しくおど
る黒痩蓬乱の野干、鳩槃荼鬼の魑魅魍魎。
婆が狐狸落しの符呪をあげる。どんとお経で背をどやすと母盲は奇
妙に痙攣けて(うん!)と唸りながら倒れる。
朱と黄金の尻尾のやうなものが掠翳めて毒うつぎの茂みに消える。
タキはほつとする。
狐狸神が火の魂になつて暗い梅雨の堤を走つてゐる。あいつは誰か
にとつ憑く・・。
のこつた盲母が虚然として眇の婆と黴臭い足のある幽鬼や天気のこ
とを話してゐる。
 
恩愛の狂つた九尾金毛の狐母は、どこからか美味い赤飯や、鰈の焼
きつけなどとつてきて、暗い梅雨の檐の蚊柱のおとをたのしんだ。
(恐くなかつたかや)
(うんにや)タキは狐狸神などと相撲とつても負けたくないと思ふ。
盲母に種々の羅刹のゐる焔える人の海のそこが判る。
幽鬼のやうな奴を誑かして、何もない奈落のそこから、漾々とした
夏の日の戦ぎや、芳ばしい檸檬の花を採つてくる。タキの腹はこの
黒衣金体の魔法に満ち、裸形の野干、梟、蝎の餓鬼たちのなかに
慣れて、いつも黒潮のやうに晴々と動揺いてゐる。
狐の母の恩愛の子は餓狼の種であつた。さうして向つて来る奴の横
つ面から喉笛にとびつくための牙を磨いた。
胸では高い黒潮が鳴つた。
梅雨あけの海も天も地も燦々と漿果になつて熟れ、油蝉がわんわん
天のどこからも琥珀真珠の瓔珞を降らして鳴いた。凌霄花の朱い花
が、とべら、橘のたかい梢にのぼる。
岩から暖潮に這ひ出す目の醒める日輪海盤車、大光海鞘、螢魚、真
章魚の泥酔。
金亀子、碧天牛、孔雀蝶、黄熊蜂は蜜と光情に酔ひ痴れて螢袋や、
錦茘枝、蘿摩などを縫ひまはり、白毫光の夏雲が、安南、緬甸の森
の臙脂を漂はせて飄々と海を渡る。
 
宵は蕃茄のやうな月・・旅の法界屋の婀娜な月琴が青濤を衝つて白
い龍のやうに、ふわふわ漂渺てゐる。陰気な母も狐狸の栖を出てど
こか若々しく昔の祭の花火師だつた父の、火龍や緋鯉の碧滝のぼり
の見事な技を話した。偶には夜釣かへりの若い羅漢たちと、金海鼠
や花磯巾着の話に蓮つ葉なわらひを立てた。白い盲母の若い肉か
ら天鵞絨のやうに婀娜つぽいものが嫋々とした。
そとに忍冬藤の匂ひがながれ、銀粉を散らして火屋にぶちあたる大
きな雀蛾がある。
こんな夜の薄化粧した盲母は堤の狐を思ひだして恐い。
ねつとりとした紫かづらの闇のところに何か熊のやうなものが窺つて 
ゐさうである。ひとところ、ろんろん燃える薄い夜光蟲があり、夏
藤に似た蝶が盲母の髪の脂に纏れてゐる。母は凉み台の上で軽い懐
しい声を久し振り立てた。
(お月灘、桃いろ
   たーれがいふたア、海女がいふたア、
   海女の口を、ひーきさけヱ……)
星がながれた。錦茘枝の実の錦いろに似て美しかつた。
                                
赤茶けた牡の野犬が迷ひこんで床を巣にした。蛙や蝗を漁つて肥え
てゐる不思議な奴・・時折り羅鱶などくはへてきて尾を渦のやうに
振つてゐる。盲母は不思議にこの宿なしを叱らなかつた。奴はペラ
ペラと軟い母の蹠を嘗めて歓ばした。その癖父のやうにあらゆる
影に吼える流残の鋭い牙。間もなくこ奴が疳癖の幼い主人の胸の洞
を占めた。
 
螢蔓が開き、薄荷、茴香の薫る月夜の西瓜畠、こつそり禁断の甘漿
をかぶつてゐる影の主人を警めてゐる野犬がある。沙のなかでは時
折眠くなるほどの濁酒の香がする。どこかで若い女の粘つこい含み
笑ひがする。天仙呆の腐つた薫がする。火のやうに犬が吠える。縺れ
た影が悲鳴をあげてどたどた走る。茴香の匂ひ、梔子の花の蕩ける夏
の匂ひ……。
(あいつらも、朱い西瓜を盗んで喰べてゐたのかい)
タキはこの紅い漿のたれる奴を抱きながらこそばゆい。
汐が渦まいて暖く鳴つてゐる。
 
とられるものは奪つてゐるし、とつてゐるものは奪られてゐる深閑
とした毛桃のやうな曼荼羅の月光世界。
女でも西瓜でも樹でも犬でも同じ翳にみえる明るい月光はどこから
来るのか・・タキは胸を膨らして黒潮の匂ひを吸ふ。
 
犬はみち切る鼬鼠の影に吠え、明るい汐騒の月をタキは得意な口笛
吹いてかへつた。
 
 ※うつぼ =    = 蠑 いもり   = たも  
 

    ろうかん  ゆらゆら々 うん  かずら

 
                                          トップにもどる
 
155  *** 黒 潮 (第三部)***
 
         ・・(海図)・・
 
あらゆる絢爛な人生の虹彩を喞筒のやうに吸ひあげて開闢の焔と水
とにかへす凄い紫泥蒔絵風の虚空。
(かくて歴史の都は滅び朱の兵燹は残照の雲と化つた)
・・それら絶望の時を反芻する蒼い雲烟の果につらなつて盤紆つて
くる熾える地獄の印度藍・・その涯ない外洋はこの碧の湾のはてに
も、どす黒いかたちを蜿蜒さして開闢の 蟒のやうに斑の鱗逆だて
てゐる。
ちよつぴりとしたあの黒雲の瘡にも潜む巨万の人類の運命の龍巻・
・珠の列島を根こそぎ洗ひ攫ふ天の羂、
奴らはマラツカを襲ひ、ルソンを薙で、国際暗殺団のやうに沓と姿
を晦ました。・・海と蒼天とがこんな安南、緬甸風に霽れ渡ると、一
層、寸からさきの人生の闇の魔界の背が怪しく眩ゆい程に燿めくの
だ。
どこかの暴風の兆の蠱咒の象にうねる黝黒い姥鱶の群る首のない屍
白金の海蛇のす巻る不吉な朱珊瑚の枝棚に絡みついて嬰魚に哺乳す
る目の潰れた八重山儒艮・・緑青と丹のだんだら模様の侏羅紀、黴
のない大殺陣の無限界・・爍ける蒼々のそこにも絢爛と今ひろがる
地獄極楽の夏の海図。
(生きてゐると思ふことは怖い。死はどこからでも凶悪な鱶の顎を
 たてる。
 人生はただ闇のなかを的もなく流されてゐる天窓の穴いた屍体
 だ)
黒潮は生きてゐる・・永劫に、歴史を蝕み、亡失を育てるためにあ
らゆる生命の残滓を抱いて無限から無限へ蒼々と渦巻いて流れる。
こどもだけがこの黒潮に洗はれて不尽の潮の旅に溌剌とそだつた。
黴臭い貧の窖のなかで・・。
 
青い東南風に捩れてどこからか翡翠の島の塒に集る白い縦帆の群
(それは病のある白い渡鳥であつた。どこかの蒼みどろが墜ちる
 一羽の掟を待ち鱶はその朽ちる舳の咒のうねりをあげた)
彼奴らは誰彼の死のあとにこともなく笑ひ、温い島の儒艮のふとこ
ろのとろける睡を買つて鋸形の巨濤の千万をこした。死は歌であり
死は縦帆に膨れる碧天の貿易風であつた。青脂の眺めの船着場の、
その天かける病の羽を休める一艘の古い二檣帆船。
 
反つた舳の炎雲を裂いて飜筋斗うつ金時いろの河童、白い噴汐をあ
げて逃る黒檀いろの孩驢のやうな奴・・鰓のある真紅な喉から汐を
噴いて浮び出る槌頭・・閃々する若布昆布の螢光色の叢のなかの鬼
の白い蹠を狙つて潜る縞猫鮫のやうな敏捷い奴は河伯の圓圓した
娘であつた。奴らは太い漁母の胎盤にあるときから、渦まく蒼々の
そこの坊主河豚やたい瑁のことばを符咒のやうに覚え、何百年の
   蝦蛄※しゃこの秘密を聴いたのだ。
(どうして祖父の珊瑚船が縞鯛や鋸鮫の出入する美しい海底の窓に
 なつたか、嬰をのこしてあがらなかつた羅南生れの天草採はどこ
 に眠つてゐるか?)
濁つた暴風あとの波濤は奴らを血嘔吐のでるまで酷く殴しつけた。
父は漁船から奴らを石ころのやうに投げこんで囃した。ざらざらの
沙の朱い口した奴らのなかにタキも蜻蛉返をうつ蹼のある膃肭臍に
なつた。海の底の天草を採つて鐚銭を貰ふのは天にのぼるほどのう
れしさであつた・・。
 
どぼんどぼん、とさつきから鰯を狙ふ鴎について紡のあちこち飛沫
をあげる肺魚どもは、高い船側から囃したてる炭油だらけの海象の
やうな白髯の海翁に手を振つて応へる。
(ぢんまの鮟鱇が酔ふちよるぞ)
(うんにや、お母あと泣きよつた。それから直きに、もちやくれた)
花虎魚の群が歌ふやうに河伯の腹を掠め、螢烏賊が手を戦がして花
絲銀宝をす敏く捕る。何かの音に脅ぢてひつたりと底沙にもぐる婆
鰈。黄金と紫の縞を縮ませたり紡いだり、海は絶えず花のやうに笑
ひ、儒艮の情女のやうに嫋々と媚びて童の膨れた腹を擦つては、牡
蠣だらけの朱い蠑※( いもり)に似た船腹に衝つかつた。ここでは      
   世界は知らぬ地球のあちらまで広く、海豹のやうなながい歳月の暴

   風濤のだんだら紋がその船腹を蝕してゐた。・・その底の闇かけて

   光る美しい亡滅の惑星の魚族……。
 
海象の船長のそらには黄金の輪がのぼる。
大きな煙管をゆつくりと舳に燻らして、船腹に潜るこどもの一人の
母親に、月の螢蔓の開く船蔭の波を、きくきく鳴咽れた若い一夏を
思ひ出す・・流れる黒潮のとどめもない泥酔・・重い歳月の鎹は、
その眩めく渦のどこかで微塵となつて砕々に外れやう。死はどこに
でも不知火のやうに流れてゐる。海翁はその幾千尺の人生の闇の底
の蠱の歌妓の歌ふ宿を知つてゐる。
(彼女は花虎魚のやうに鈍かつたが味があつた)
(彼女は螢魚のやうに恍かした身の毒だつた)
恍惚として眺める蒼い澄んだそこを漾めいて流れる花の海市
その紫の絲繍のある女の居らない昔の窓(騰つて消える翡翠の泡)
 
(爺!魚狗うたせ)と、このきらきらの銅仏に纏るタキ、
(目を眩すな)と笑ひながらタキを軽々と肩車する海翁のそらをひ
らひらする鴎がある。高い舳の入道雲に飜筋斗うたせて逆になつた
そらの陸は奇妙なお妖島であつた。
噴きあげる虹の眩暈のなかタキはこの世のそとの晴々とした呼吸を
した。(汐をわけてひらひら足掻く龍の落児のタキ)
天は軽くカロリンまで蕩けてゐた。螢烏賊と花火滑の目のさめる群
を織る透きとほる碧い波のうねりに誰も黴臭い壁を忘れて笑つた。
その底のない縷玉の碧と黄金の紗の渦を透かしてひたひたとこの世
のそとの印度模様を縫ふものは生きてゐる水の聰い天の掌である。
それはただ楽しくあらゆることを忘れるためにとほい南の島から歌
ひ続けて来た。
 
タキは潜る。ひらひらと花絲銀宝魚のやうに泡をあげて小さくなる。
・・軈て紫褐の棘のある悪魔貝を抱いて来る。こ奴は素晴らしい魔
除の貝だ。
 
毒々しい瓔珞水母は歌つて沫をあげる娘の膨れた腰を窺つてゐる。
娘の螢柔魚を絡めて潜らうとする赤鰾のやうな嫌な奴……黒潮は絶
えずこの蠑※(ヰモリ)腹の船腹にだぶだぶと蓮つ葉に笑つた。
(温い碧玉の沸騰する潮のそこには情女が醸された。唇の厚い誰と
 でもわけなく許して仕舞ふ救苦の花の黒潮菩薩、そんな眼の黒く
 大きく切れあがつた女性は小さい島のなかで世界のかなしみに揺
 られて次々にかへらない旅に立つた。どこかのたいや正覚坊たち
 に買はれて蒼い秘密の渦に果てた)
 
蒼い海は粘つこく、さうして重つたく眠い。ざぶらんざぶらんと嬰んぼ
のやうに未通娘のちよつぴり膨れた乳豆を揉んだ。(不意に背後か
らひらひらと無心のタキに抱きつき、泡をあげて溺れるを歓ぶ花烏
賊のやうなをんなの重い吸盤があつた)
執つこい吸盤は海のやうな眠い重さをもつて絡み、少年を花虎魚の
やうに驚かして恥かしくした。タキは慌てて泡をあげて潜つた。
 
岬の鼻の白い燈台かけて銀の飛魚の群が騰つた。恐い鋸歯の逆又魚
が追つかけたのだ。
    ・・  ・・  ・・
黒潮はあらゆるものを抱擁き、あらゆる人生の歌を轟かして盲たる
始原の魯鈍に悪魔と神との眸を開けた。
その底にをんなは熟れ、おとこはそだつて闘の牙を磨いだ。
タキの眼はすこしづつあらゆる果の屑を呑吐する黒潮の痛みに慣れ
て人生の黒白の彩を見定める圓らな光を宿した。
(暗いそこの蔭から泛いて光に戸惑ひする幼い深海魚)
さうしてよく星を浴びて渚の盲母を困らした。
(星はなぜ夜になると光るか。なぜ人が死ぬると星は一つづつ増え
 るか。
 うちはなぜ夜こんなに暗いか。
 人はなぜ穢い屍になつて犬猫などと渚にあがらねばならぬか)
ひどい暴風に没られて微塵子や鱗虫になつても、蒼黝い恐いほどの
夜の沖には螢烏賊ほどの燐光が何かを漁つて明滅した。
(暴風のあつた朝、光参のやうに膨々した屍に石鼈が喰ひこみ沙蚕
 のやうな忌な奴がぬるぬるして顔の穴を這つてゐたつけ)
夜の海は婆のやうに懐かしく嗄れた声をたてるが、暗い蒼みどろの
そこには朱海盤車のやうな手をどこかへ伸して貧乏な漁民やこの世
を狭くするものを待つてゐるのだ。
 
地震が海のそこから揺れる。・・と、漆黒のとほい沖のそらを紅、
檸檬の火が石版画のやうに爆ぜた。(噴火湾の神火だつた)
盲母は燈火を漾かせて火鎮の禁咒をあげる。
(地のそこの火の神祇を鎮めるための天翔る白狐)
銀河は朱の神火の端から斜に蒼い夜天にかかつて盲母のかたちを物
憑のやうに神韻と彫物した。
火はどこの樗の枝にさへ填り背向の祀をあげる盲母の黒い髪の毛で
さへちよつとひねるとぱつと千万の紅蓮があがるかも知れない。
その漆黒の闇のそこに天地の始から熾つてゐる神火がタキを呼んだ。
渦まく火口のそらにひらひらと千万の黄金の胡蝶が舞つて紫磨金の
紋のある火の鳥が翔り丹紅の紅焔をあげる火の花の満ちた美しい極
楽の島、
誰も・・そこの一粒の沙でさへ千万年の昔からどこまでたつても焔
える紅玉となつて生きてゐるところ……
盂蘭盆の祀はどこも日暮の渚で蒼い迎火を焚いた。どこかの沙にあ
がつた孫のため、白い波頭から隠れてどこの鱶の腹からもあがらぬ
頓証菩提のため、
亡いひとの姿をこして早、黒い潮は満ち、神火をのせる潮の鱗は
何となく影が寒い。
沙の窪みの葦のなか篝火に写る老婆があつたり、跼んだ鵲のやう
な孤児たちが貝殻を口にあてて昔の父のことを聴かされた。
(父ちやもあの白い泡のやうに吹きとんでゐるかも知れない)
粘つこい渚の闇の汐風に濁つた泡はふつふつと生きてるやうに飛ん
だ。
沙をどんどんひたして来る盆の黒いかなしいみづ・・朱く写つて火
の魂のやうに焼ける遠い沖の噴火……
(盲母はべらべら裾を夜風になぶられながら沖を染める紅殻いろの
 神火の方を何か一心に拝んでゐた)
    ・・  ・・  ・・
気狂ひの棺松の叫びながら千鳥形に衣を乱して走る暴風の稲妻に
大きな飛石刎石がごろごろ暗い陰府から鳴つてゐる。
(あ奴が陰気な銅鑼をうつと、きつとボルネオの黒い魔海まで髑髏
 だらけの廊下が開く)
沙がもう生きかへつて渚の劫闇からたちあがつて凄く走る。
(舞ふ黒龍、奔騰る魑魅にひらめく紫電の轟々)
暗褐のそらを声を消されて吹きちぎられる襤褸ぎれの咳鴉、
ざあざあ、黒雲礁から断崖かけて魚骨を吹つとばし菊目石の無縁仏
をたたきはらひさうなひどい暴風の白雨(そこにはもうさつきから
赤燐いろの怪しい暴風の兆の火柱がたつてゐた)
黒い波は沸きかへつた。どこも黒い雲に閉ぢられ、濁つた沫がそら
を隠した。
(あいつの死んだ夜はこんな暴風であつた)
(からだをしつかり柱に結ひつけろ)
どつかの風と沙とのそこから闇が朱の口を開けた。酷い雷だ。それ
から凄惨な磯松の倒れる音がした。
虫のやうに蒼白く蠕動するだけの燈台はぢきに劫闇の沙に埋るだ 
らう。(その地獄の鋸礁にさつきから姿を消さうとしてゐる黒い鱗
蟲・・珊瑚船の群)
それから黒いそらに明滅してとぶ紫磨金の雲の利鎌、
(ひどい波と風との轟々に聾唖になつてタキは祈る盲母の懐に、沙
 をとばす癩蟹や、屍を啄くたいのあるく音を聴きわける)   
突然、
天の壊れるほどの鳴動がして、そこここの凄い闇の吼声から朱をひ
く断末魔の獣めいた悲鳴が洩れた。(沙泥のただ真暗い轟鳴が何も
かもを天地のなかから隠した)
    ・・  ・・  ・・
黒潮は陸をのぼつた。劫暗の盥が一寸揺れるといくつかの牡蠣に似
た村が始原の沙のそこに洗はれた。
(タキと盲母とは岩の根に蓋をして辛く生きのこつた小さい二つの
 石鼈であつた)
黒潮はしかしのこつた生命をとらへて金輪際放さなかつた。
子や親を埋めたま新らしい沙の故郷にこの珊瑚虫どもはまた自らの
炭酸石灰の遺骸で小慧しい家系を彫るのであつた。
沙の凹みの風避けに・・侏羅紀の巌の壁の蔭に・・。
 
蒼々の渦はながれて瀛る、東に、南に、
黒潮はあらゆるながい人生の歌をのせて忘却の航跡をゆき、
無心の縞鯛や青鮫がその一つ一つの運命の甌穴を晴々と舞ひながら
出入りしてゐる。
 
  たいまい   しゃこ 
      いもり   虫 じょうちゅう       
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156  *** 幻 雪 記 ***
 
詩文       雪折やよし野の夢のさめるとき ・・蕪村・・
        一
 綺羅々の青い鬼のゆめからふつと醒める まつ新な雪がきたない
まくらがみで深々と薫つてゐる 放たれたひとつの鳥のやうにはて
なく澄みわたる蒼みどろ ああこの毛彫のうねうねの銀線をこして
あたたかい旅の温泉の幻がみえ刺すやうに怨んだひとの後朝の青い
瞳の火がみえる(北こう一片の煙)厨の火はもう瑪瑙のやうに凍つて
ゐる からだに戦ぐ寒竹の真蒼い翳がある
 
 ちちも消え母も消え恋女もはだらの山影の雪の泡沫に消え ただ
まつさらなひるどきの銀をそよがす薄けぶり ちらちらと朱の裳裾
ひいてながれる あれはわが鳥辺野の妖しい野火の荼鬼なのだ そ
のほのぐらいひとところ幽鬼とあそぶみどり児の姿もみえ 白雪を
いただく無明のいただきもみえ どこやらに法華経を誦む幻の鳥の
声さへする
 この山沢はどこなのか 朱を刷いて冬の襖を彩つた丹頂鶴ににた
情女などない 亡いこどもの幽闇の衣にちらした白魚の紋も北こう    
無漏の源にさかのぼつて あかときのつめたい雪のまくらには荻が
戦いだり河鵆が笛を鳴らすし うつらうつらの邯鄲の青濤の上には
火を噴く金刹の幽鬼が舞つたりした
 ここら寒い庭潦にのこるはだら雪の紫匂 たれにおくるとてもな
い寒竹の厨の火に透かす卍の牡丹雪 あれは山の天からまつさかさ
まに阿鼻獄の青い焔におちるみえない滝のおとなのだ
 金のうつつ 銀のうつつ 七宝のまさやかな人生の闇 深々と柊
のあるこの窓に 遺つた髪や遺つた衣の空薫物の香をあつめてみる
と わたしの通つた花の大路も数寄屋もみな雪の泡沫のそこになつ
てしまつた
 枯野は枯野 雪は雪 ひとはそこらの花のない墳土の蔭にねむり
怪しいともはかないとも鳥もとばない野末の薄墨のけぶりのそらに
黝い朱の卍を画いてたそがれる
  野火うすく夢につづきて燃ゆる原
        二
 どうかひとつ鷺娘を舞つて下さい 雪のなかの荻の媼さん 襖に
は緑青の竹も わつさとつんだ胡粉の牡丹雪もある 幽冥 騒界
ひと目に見渡す青い火朱い火もここにある さうしてここには亡い
ひとの花の筐の孔雀の衣装なんどもある
 あのひとはこの雪から生れた それから臈蘭けてこの雪の滴のし
たたる金羅金羅の韻から琴をならつた
 歿くなつたのも雪の日だつた わたしにのこる幽鬼のすがたがあ
りそのひとには雪のしたたる光の韻だけがある その日わたしは白
雪のいただきにのぼる美しい龍をみた
 うたつて下さい 雪のあかつきの鵆の娘さん 死ぬ日に切れた一
の絃 あのこの弾いたのも鵆の曲だつた
 青らみのながれは雪をめぐつて 草深い軒の雪のしたたりの胸に
韻いてけふもさんさんと鳴る
   琴ひきて
   はかなきことばかはしたる
   荻のふるすのかはちどり
   雪にかくれていまもなけるや
        三
 生くるとも死ぬともなく たうたうと天の闇路の指すところ 雪
よおまへのそこのはるがおまへを呼び とほい無明のいただきから
羅刹の舞ふ 洞から おまへは世にもかなしい眼をして愛する冬の
筐の地獄に別れをつげる 雪よそなたの消えゆく山襞の姿はまこと
にこの世ならぬもののやうにかなしい わたしはそなたの消えのこ
るはだらの岩盤に象るふるさとの山河の幽鬼だ そのまぼろしのか
たちに肖せてすぎゆく白い慟哭の永劫を浮彫るしがない羅卒の匠だ
              (朗読詩として 薄墨文章の一つ)
 
      ※ ほっこう
                                     
                        
 
157  *** 螺 鈿 詩 抄 ***
 
一切斬
さうして呪縛の碧い螺鈿の雲を放つのだ
 
闃とした劫闇に底光る燐の循環
おのれはひとつの仮説だ 迷だ
 
青い燈を亦たてる 法をこえた白い劫の夜たちのために
 
ある刻 月の出の白蝋いろの嶽と訣れた
故妹は蒼い奈落の底で 渦の秋衣を擣つてゐたつけ
 
煙波に冒されて稲妻型の烏径が光つてゐた
 
遂に松柏に隠れる
碧いものらの籟は 怨火のやうに簡くつて勁い
 
鶺鴒に白内障の老母を労り 紫陽花にほとけを養ふ
 
石魚も絶える渦の 桔梗に朝々を漱ぐ
ひとつの秘壺の天と紅玉となる壊疽の胸とを
 
雪崩るる秋昊の翳 昇る呪雲の透明
 
碧潭にとぢる主なき天霧の 一生
その白い卍をかけて 擾ぐものはここらを離つた
 
窶れては火も亦 碧い
山閨は呆けて石蓴を濯つてゐる
    ※
刻には 蘭のやうにかたつてゐる
終古の惻々たる白亜紀の蒼い断面を
煙となる悵恨の石たちの放浪の歴史のために
 
聴くか
鼓膜の底を衝つ渦の突然変化 白亜紀の始原鳥の呪詛 侏羅紀の怪
物たちの果しない死闘
 
白燐の循環の啾々
桔梗の綿々の灯
暗い茜を巻いて盲の渦の競ふ下界
 
背絶するしがない人倫の闇
沈として吼ゆる籟 石の激ち
 
終古の螺鈿の刻印
 
噫 今日も安らかに土偶を購ふ霰の山落 桔梗の脾弱い灯たちのた
めに
 
破衣の潔白 茜の頬
 
卿 童もたたかつてゐる和霊の天のために
 
稲熱病の暗い茜ゆき 刺棒もつた忌紙貼る鬼にも逢つた稲妻
型にうごめいてゐる地球の翳の
 
蒼々となる崎嶇の雲嶺の億の幻
おれはたうたうここまで来た おれはまだ劫のそこの蒼々の
燐の仮説もたてられないで身震する
 
碧い螺鈿の刻印に
          (註、螺鈿抄は各々独立せる詩にして聯とな
           すも、みる人の自在なりと言ふ)
 
 
                
 
158  *** 落 英 抄 ***
 
       朝飲木蘭之墜露兮
       夕餐秋菊之落英 ・・楚辞・・
 
天の笛
樵児らは吹き
菊かれてわれのみ寒し
    ※
雪あかり
夜雲転じ
埋葬蟲のひとら燈を消す
    ※
垢ある星の
ふる夜寒
子らの褥に光るらし
    ※
生きのびて
嘴蒼き鳥となる
    ※
木枯の祀
星の斉火
    ※
土偶つめたきを購ふ星の霰
酸敗のひとの嗤に
燈なき山劈を分く
    ※
莽々の草木に主なき燐となる果
いたつきの骨灰に埋めて
かつ掌に泥む蒼の輪の月
    ※
うらぶれた落雲の漱ぎ
目を遺る霜の真白い残心
    ※
あるものは蒼々たる渦だ
底ひなき碧落と土のそこの
沸きかへる渦の盲彩だけなのだ
    ※
水雲を離れる
朱の貧火に埋める
ああただ碧落の泥を舞ふひとつの名
    ※
蒼き風知るこどもの愛しさ
    ※
暁の火の上に永い声がした
ああ
儂は蘆の間からそれを掠め聴いただけだ
    ※
雪のあとは
丹火で濯ぐ
真白いはるかな西東の無縁仏たちに    
朱の花をたてて眼を濤のやうに蒼くする
    ※
咸剣だち
ひそかなる朱の声を嚥んで
泥を鎧ふ真冬
    ※
泥の聖母
皹の潔火
その盲暗の母の目の蒼い縁に幽かに残る二ホンの雪烟の部落
    ※
碧落
その凍る花崗の奇石のために
散る煙
雲母の大圓心のそこの冬とがる鶴の眷の眸
    ※
鳥ひとつ鎬ぎて翔く
朱きつるぎ鋩
 
垢苦の飯喚ぶ子らの眸火の瑪瑙なす朝
 
 
     かな    
         
 
159  *** 落 英 抄 (続) ***
 
螺鈿の刻の
まがなしく
灑ぐ真冬のそらにのみ
ただひとつなる雲母摺る
    ※
渦くれて
頬のつめたし
蒼みどろ
その大森厳のそこに燈るもの
    ※
氷魚
 
そのひと群の 蒼の盲縞
罪の鱗を天に立て
 
寒きを刻る日のあはれ
    ※
茜くらきを
没るものあり
寒波蒼らみ
薔薇の牆にひと日の寒きを残す
    ※
氷霧を棘ふ
日の名残り
泡沫のはて ここに
山の碧きを彫るこころ
    ※
蘿衣の日暦
茜の頬の火
(あれち)のそこに萌ゆるを謳ふ樵童
    ※
飛鳥絶えて
朱葉の蠱のみ匂ふところ
雲あれて白玉の奥津城絶ゆるところ
    ※
山落の
そこひも知らず
風雲に渦巻く桔梗の燈
わが痩肩の 霰の天に冒されて
    ※
歓の瑠璃の冬
裸なる木々に婚姻へと
流泊の寒風
 
はるかなる ただはるかなる       
    ※
ささらの愛
節くれた蘿の抱擁
雲母はひらめき
微塵はとび
雲はひくく牆の菊の落英に鳴つてゐる
    ※
朱火を立てる
雲に 龕 する
毛彫の俺は啖鬼であつた
俺はあの鏘然の雪崩に千古の薤露を落下さす
 
   あれち    かなる
                   
 
160  *** 雲 の 柱 ***
 
       × 日
風に
碧天の梧桐。
巻雲の胡笛。
放鳥。収繭。
 
冥府の熔岩の累絏。
文字にも尽きた蒼らみの底の崎嶇たる吾天路歴程。
 
この日、こともない霧の翼のひらけて
絶湍の藤が贏せた胸に渦を巻いてゐる。
 
       × 日
雲の柱の奇蹟は絶え、
野鳥雑考……。
老いたる梟の父性に就いて。盲たる寒苦鳥の母性に就いて。下痢す
 るばかりの劇しい白我狂。
噫。白い野糞のやうにうづ高くなるだけの反故だ。
莽々とした大脳の蜂窩に火を点ぜよ。
凡てを藍に投ずべきか。雲の柱を趁ふべきか。
悪くすると雲の中の俺は腸結核に巣喰はれてゐるかも知れない。
午後、風に吹きちぎられた行々子の巣を葦のなかに発見けた。
可憐な雛はもうゐなかつた。
漠々とした追放のモーゼのやうな痛ましい沙漠が目に来た。
この日も世界は創造第一日の火の泥であつた。
 
       × 日
棄てられた人穴をあるいてみる。
何万年の結晶する雲の柱・・硅酸塩類。
 
エホバ。
お前にもう天地晦滅の火の柱はないか。
この気のとほくなるほど美しい笹葉形の橄欖石群の壁龕。月桂冠。
 (レモンの木は花さきくらき林の中に
  こがね色したる柑子は枝もたわわにみのり
  晴れて青き空よりしづやかに風吹き
  ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く
  くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ君と共にゆかまし)
                 (鴎外・・ミニヨンの歌)
 
噫。夢の琅かんの憧憬の邦もすでに地獄の火の泥だ。 
 
午後。ノアの箱船の鴉のやうに、独り薊の花青素抉出と配合の労作。
 
   ろうかん
 
       × 日
天体望遠鏡の欲しい蒼いそこのない月夜。
何億年のうち寄せる蒼々の山の皺……あれこそ生きた火の濤みづの
濤だと言つて聞かせる破れた障子。
燐寸ひとつ無駄に擦るな。
あの煤けた屋根裏の義兄の拙い筆跡に添へるわが娘への心からな学
 資金××の音信。
覆滅する雲の柱。
紫いろの切ない火をこの脂くさい眼に感じ。
どこかながれた大風圏の野放図な生活設計の胸に疼き。
歯を搾つて、野鳥雑考、鳰の巻を脱稿する月夜。
 
それから晩くまでレンズ磨。反輾後の溷濁の昏睡。
 
       × 日
夜天を嘲わらふ痴者の杜鵑。
その白い帛を裂く声につるされてあがく四大の闇。  
親と子と。
血と血と。
敵と味方と。神と人と……。
深とした青葉の、のたうつ闇を嘲る放浪の天鳥。
 
  
 
       × 日
火の泥。
(ルクセンブルグ公園の覆滅)
地獄からの閃々たる天国奪還の砲火は吼えてゐる。
だのに、奴隷の英雄サムソンは獅子の眼を抉られたままガサの粉挽
 場で地軸のやうな轆轤を廻してゐる。
 
その広い肩巾の揺れるとき。
雲の柱の騰るとき……。
    ※
雪に脳をやられたQ。
どこだか忘れた 寺院の尖さきの十字架で俺を喚んでゐる西比利亜
鴉。
泥の晦雨だか火の礫だか。
おれたちの水晶の銃口どもは町を横ぎり泥炭を衝切つて雪の天にの
 めつて行つた。
                    ・・S役の回想・・
 
       × 日
一顆の芳しい夏檸檬の幸福。
天の乳にひたつて
あたらしい世界の図を購はう。
火の泥のそこの盲たる奴隷の廻す地軸を感じて。
 
       × 日
誄疾みて山にかへる。
貌蒼き 渦のみなかみの野の乏しき夕餐。
無花果の闊葉の皿を分けて知る天と地の貧しき創生。
 
鳥のやうな子らを放して 廓落たるわが翳のひそかに
さざめきの藍の星を待つ。白露を祀る。
 
       × 日
レンブラントの貧と光との光線辨証法。
おになづなの葉の渦線状曲線と 渦状星雲との因果律に就て。
 
あはれなるパレツトに練る雲の柱の創造の怡楽。
飛鳥に。魚紋に。花蔓に。遊行村童に。
天は火の泥の日も、始原マドレン期の曙人の紋章をいたるところに
画いてゐる。
 
       × 日
さつきから俺は慧星核のことを思考してゐた。・・いや、この夏下
獄した体の悪い発明家の義兄のことだつたかも知れない。格子のあ
ちらの蒼黝い罪とは何だ。
天仙果は腐り、梅雨の間に砕々にやられた我々の生活の絨氈に黴は
用捨なく生える。
・・折角月宮殿との距離を縮めた唯一つの小型天体望遠鏡も売つて
仕舞つた。
我々の蒼い月は依然獄窓から絶望の光の刺を射してゐる儘である。
 
       × 日
深沈と焔える銀河系に曝される終焉の一個の鏡軸。・・背徳の俺。
蝎のやうに湧きかへる朱い地軸への刳る疼。
 
わが蒼桑の内側の、劫初直立猿人はふつと氷の夢を醒め。
何万年の氷りついた鈍い頭を轟々の火山礫層に擡げる。
・・軈て。ハイエナ、剣歯虎、マンモスの哺乳眷属たちと蒼茫の氷
野奪還の大合唱を天に呪する。
・・擱坐して火を噴く戦車の闇に。
殷い陰々の雲の柱を騰げて崩落する摩天楼のそらに。
    ※
月宮殿。荒野の屋根裏の書斉の夜半の読書と、氷罅の暫の沈思。
火の泥の日・・見事な人間大脳の天園の無花果をみよ。
・・ 一八九一年和蘭軍医デユボアは瓜哇火山礫層で最初の創生猿人
類の遺骸を発見したのだ。
 
       × 日
衰へた田鶴・・誄の肺門淋巴腺の皮下注射。
それから雲の柱のレンズ磨。
奇蹟はない。あの娘はもうくたくたになつて眠つてゐる。屍斑のや
うな嫌な曇天。
頭の読みさしの古い聖書と新世界地理綱要。
地のそこには眠つてゐる間にも火は鳴つてゐる。あの娘がこの贏弱
の躯で世界の悩みを知らうとし初めるのは悲しい。
 
       × 日
耳鳴不息。
夜は陰惨な黒潮が寄せてゐるやうだ。大脳の地獄にはるかな故父の、
ルビーの漁火点滅す。
 
困憊の木椅子の仮睡。
巨大なる群生の海洋微細動物等の蒼い蒼い集団。
夜光虫。水母類。甲殻類。苗蝦類。軟体動物。腔腸動物。
光耀たる大古さながらの幻想・・タンギユーの画因蒼い背景。
火の泥を脱けて俺の大脳光暈は、いつか真逆にこの絶体機械化生
 物群の美に墜ちこんでゆく。
 
       × 日
橄欖石の巓から俯る蟻地獄の焦げつく地の底。
髑髏の贄。絶滅の神火のそこの湧きたつ創の愛。
白雲に隠見する大侏羅紀断層の化石群。
脚を冒して騰る玉雲に冷い汗のたらたら落ちるおまへの蒼白い額も
世界創造第三日の課業のために 渦のそこの水成岩のやうに緊る。
 
火に火の泥を重ねる劫初の愛の地獄のルツボ。
ノアの洪水をもつてする渾沌の水の放浪の復活へ。わが凍る心耳に
 も覆滅の火花をうつ世界の海底ケーブル。
 
       × 日
昆蟲類母系家族と鳥類父系家族との最高社会形態の比較グラフ。
この光耀どもの創めた原始の世界はいかなる火の泥の日も不滅で
 ある。
俺は赫くなる。泉で夜の油脂を洗ふ。
朝の山上植物園に出る。(ここは蒼い十坪の燿くシナイである)
俺は老耄のモーゼのやうに坐る。
蒼蝿の巨きさ。
てんたう虫の豊満のみごとさ。
蟻共の愉快な戦争。朱欒の開花。
おれはここで小さい雲の柱をみる。
地球はここで始めてこどもの毬のやうだ。
 
       × 日
いつの世か沙と蝎との地は瀛つて又太古のやうに繁つた。
喪ひつくした放浪の煌日の濤の寄せるところ。余も亦荒屋の碧い破
 風と。机の上の人類起原論一巻。
 
瞑れば、壁のあちらの家畜と居る隣人の足は石にのこした曙人のや
うに巨きく。
乳搾りの百姓女の乳房は楽園のやうに楽しい。
火の泥をこねてエホバのやうに竈から陶の生物どもをひねくり出さ
う。
猿。無花果をたべるアダムとイヴ。蛇。鳥。海豹。ハイエナ。象。
 猫。川獺。
この火の泥は確かに生きてゐる。
花の巴里の落ちる日も創生の夏のそらの光と嬉々と戯れてゐる。
 
 
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161  *** 真 冬(他五篇) ***
 
    真    冬
 
藍深く燿ふ石灰穽の
玉なす冱寒
 
わが囚の鑿に鐫る開闢の星
曙の天鳥
 
    渦
 
渦に真冬は深閑と彫られてゆく
あさのこどもは天の翼をもち
われらの欠けた食器に鳥の凉しい声がある
 
    段 丘 眺 望
 
蒼い氷河の渦の告知
かの眺望の紺の段丘に
月の女神の石の絵は錆び魚鳥の紋は埋れた
 
わが滅の光のために
火を掲げよ 森を逐はれた牙狼の為に
雪は既に玉のやうに渦の涯に真白い
 
    曙
 
天地の分れし初 渦巻く曙
火の丈の雄たけびの子ら
野に競ひ
海にあつまる
 
 
            
 
162  *** 笛 ***
 
雪の笛
葭の笛
雲の笛
鳥の笛
 
一月のそら晴れて
とほくの陰から光からもきこえる天の笛
地の笛
ねむるものも
息づくものも
ひといろのそら渡すいのちの圓笛
 
亡い母の声
こどもの歌声
とほいあなたたちの前に湧く砲煙
 
くもとみづ
ひとみに蒼く
一月のとほい山に臥す胸は
只銀の笛を吹く
 
 
               
 
拾   遺
163  *** 無 音 譜 ***
 
白い椿の
そばにじつとおちつくした杜子春のやうに
だまつてゐるときがある
天と地と晴れきはまつたさかひに
おのれと白い椿が裂かれるままに任してゐる
 
 
              
 
164  *** 無 題 ***
 
煙のうづまきの
かなたにのこされてゆくおまへの動かれぬ病のからだを
まちの烈日は裂かうとするか
ふるさとの山は雨後の虹だ
母がなくなつて
くらいうまやに牛の声もめつたにきこえなくなつた
いつこたちは たでの花を摘んだりしてけふもくれる
兄さんは川の面の
一ところの夕明りをみつめてゐる
 
 
                 
 
165  *** 燈 ***
 
わたしたちは
雨のよるはなるべく明るい燈をつけた
わたしたちは
くらい山とうみとのことをはなした
わたしたちの燈はもう
どこの雨のしたにもない
わたしは一人この山をこえやうとする
わたしは黒燿石のやうなふもとの夜を眺めてゐる
 
 
                                            トップにもどる
 
166  *** 領 分 ***
 
雪は雲のなかにある
山は
枯野ははてなく広い
こどもにかかす一と二のづつしりと晴れきはまつた字
おお
この字に向つて雨に雪にはるばるとこしてきた
雪はけふ雲のあひだにじつとしてゐる
おのれのこえる一と二の領分ははてなく広く寒く
 
 
              
 
167  *** 無 題 ***
 
夜はさむく
このうらのあまのこらの衣は
何千年からのやうにうすい
あいつらはいつも火と明星をもつきりだ
あれらの肉は何千年ものむかしから
裂かれるあさのこほりのやうにぴりぴりと震へてゐる
 
 
              
 
168  *** 無 題 ***
 
のろい世と一所にあるかうとしたのが
まちがひだつた
おれはさつぱり肉をあらつて清々しく
どつかりと星とか火とかのそばだけで寝こむとしやう
くるくる眩しくまはるだけの大地の心が
実につまらないことに思へるのだ
御来光
おおそのくだらない御来光のあるまで寝込むとしやう
 
 
             
 
169  *** 無 題 ***
 
おのれのかいた
これは火焔の文字なのだ
うしろに焔 前に雪
三十余年の裂けたおのれの雪を塗る焔の傷口だ
おれは書く不動の天地の一字一句を
 
 
               
 
170  *** 幻 の 龍 ***
 
龍だとおもつたのは
白い夏の小さな蝶であつた
そんなものは
未明の濁つたうみをどこかへ光りながらとんでしまつた
わたしは舷の濤の谺だけぢつときいてゐる
 
 
              
 
171  *** 山 ***
 
眩しい萬法の天かけるおとに
耳をたてて
とがつた緑をうちならす驟雨の雲のなかにゐたが
ほうら
何もかも萬丈の山のしたに
矛のやうに青く研がれて晴れ渡つてきたのだ
わたしのあらゆる白い火の胸の瀧を
ここからだうだうと突きおとして仕舞つた
 
 
               
 
172  *** みえぬ法衣 ***
 
そなたの袖は風雨にさけてゐる
そなたの裸足は石のやうに寒い
そなたは
くらい雨の山の橡の枝にも
そなたは千仭の瀧のなかにも隠れてゐる
わたしのこえる火の山のなかにも
そなたは矛のやうな声を悲しく伏せる
わたしに
そなたの裂けた法衣がもうみえぬ
わたしの
啄木鳥のやうな一眼はながい辺土の瘴煙におかされてきたから
声なき眩しい悲しい声よ
わたしは只信ずるそなたの稚い胸の瀧の
わたしの胸で永劫に白く泡立つことを
 
 
                  
 
173  *** 杜 鵑 集 ***
 
金いろの翠が
あたらしい波をうちよせてゐる
また雪の冬から生みかへつた傴僂の彦のあたまの上で啼く
まつ青いほととぎす
あいつなにかしらをかしいとみえて独りでどつと笑ひ
さうして
五百羅漢の一人のやうに青麦のあつち
すたこらとあるく
    ○
からだより
あたまのでかい傴僂の彦の胸が
あさの大麦の露の光に彎つてあるく
あいつこそ
幻のあひだに死んだり生きたりする不思議なおとこだ
茶色の馬の尻に青白い鼻蠢かし
大将どうもすばらしく愉快らしい
時々どつと笑ひこけながら
すたこらと馬のあと魚籠さげてあるいてゐる
    ○
縷のやうに
のぼってしまつたあれは雪の象だつたのさ
この深い翠のなかでは谺すらまつ青いではないか
あれか、あれは黄だつたのさ           
あれは的のない杜鵑だつたのさ
裂帛の重いきもちだけこの花粉のある春昼の光にさかれてゐる
    ○
なにもかも鉤となつて呆け
半月にたらない嬰児をだつこしてゐるさ
かへるべき晩雨 かへるべき樗の紫の花のもとに
このさくらいろの悲しい肉塊とともに光を伸してゐるわけさ
のやうに杜鵑のやうに
この壁にこの嬰の生月と名だけ消えぬやう彫つておかう
 
  *杜鵑ほととぎす    おうれい= 朝鮮ウグイス
 

 


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