【参考資料 日本未来派 第七號 昭和二十三年一月一日發行 記載より】
 
 
   岡本彌太のことなど
 
                                島 崎 曙 海
 
 彌太とよびきりにはできない私だ。彌太さんとさん付けで他人にも話し、彌太さん本人
をも私はよんでいた。今思い出してみても、ずいぶん淋しそうな人で、黙然と坐つて、庭
のシダレヤナギをじつとみつめて、あぐらをかいているのをよく私は脳裡にうかべる。も
う一つの姿は酒席に坐つている彼である。身體は五尺六寸はたつぷりあつたと思うが、人
より大きい左手の親指と人差指に、小さい酒杯をちよこんともつたところなど、なぜかた
あいなくそれをなめるように口許にもつていくところ、今でも思い出すと、ひとりでに笑
いだしてくる。彌太さんはずいぶん手の大きい人だつた。
    ○
 彼の書いた略歴にはたしかに、商館員、船員、教師と、職業を書いてあつたと覺えてい
るが、商館員、船員時代というものは私はなにも知らない。商業學校を出ているので、そ
うした職業についていたのも不思議とは思われない。しかし、二十四、五歳から四十四歳
の死まで、小學教師だつたので、人生の大半の職業は教師だつたといえる。二十五、六歳
で親戚の娘と結婚した。この時分の彌太は短歌を書き、繪筆を握つていたという。生地、
高知縣岸本町のすぐ隣村の夜須といふ小學校につとめていた。綴方と畫の教授は熱心であ
つたが、その他の教科にはよい先生とはいえなかつたという。大正十五年四月十日に麗詩
仙という四六倍版の詩雑誌を出している。以前、文藝あたりに小説を發表していた佐野順
一郎もこれに詩を書いているが、ものすごい豪華なもので、今時なら一冊が何百圓もかか
るではないかと思われる。彌太は郷土散策詩篇と室戸町をのせている。二十八歳の白面詩
人彌太はこの豪華な雑誌を抱いては、夜夜海邊近い料亭で酒にひたつていたと思われる。
白晝顔に白粉を塗つては街道に飛び出し、自動車の前に立ちはだかり、それをとめては面
白がり、そんなたあいもないことにうつつをぬかしていたという。この麗詩仙が何號まで
つづいたのか私は知らない。昭和三年九月二十日、LA SEIKIHEIを出している。彌太三十
歳の時で、表紙に、OCTOBERL Labelela poemo klasika monthly magazine Yama-
gita Kochi Seikihei-shibo 1 と活字で入れてある。彌太は紺龍太郎の筆名で散文詩
「孤獨なる圓筒様風景への Image 」と青濤詩篇を發表しているが、麗詩仙の表紙にもだ
が、これの扉にもヒヅスタニー文字を入れてある。どういふ言葉か私には意味がわからな
い。なんだか印度とか南蠻とかギャマンとかそんなのを好む連中だつたらしい。當事の五
圓とはずいぶん値のしたものらしいが、同人費五圓をもちより、活字まで買いこみ、同人
が活字を拾い、校正し、刷つて、製本したという。私はそういうことを本人からもきいて
いる。これには後、瀧川富士夫と出した鸞の同人であつた木村巌夫、槇三郎の名前が見え
る。後記は「草房青語」という題で、
「青騎兵詩房には青あらしの吹く十字路がある。メカニズムになる印刷工場へ、その直角
を行くと階段を高く上つて行く李 太 白になる。星雲にぼやけた露臺には6吋の望遠鏡と
天球儀があるのだが、反角路はどうしても酒倉へ通じねばならない。暗い廊下だ。ドムや
シャンパンやアブサンや老酒のたる詰がある。かくてるぼっくすをこの間内輪の詩人祭
で踏壊したので、かくてるはできない。編集室の扉の前には赤靴やラグビー靴と交つてい
つも纏足の少女の赤い靴がぬいである。かろかに耳にたれた金環の愛らしい音がきこえ
る。若いドンジャンが来てゐる。彼はひどくえとらんぜゑである。清鋭古怪な版畫に長け
てゐる、が、近頃辨髪少女となまけて、いいものは創らないので、青騎兵の方もお茶づけ
のやうにかくの如し。次號は海ぞくせんのやうな友達が船長をしてゐる帆船が、日本のよ
き藝術品や田善の銅版畫を逆輸入して安南から著くので、どつさり良いものをのせる。船
は葡萄牙のスマートな造りだ。こんな装置をするものは文撰の紺龍太郎である。」
 たのしいではないか。なにか連中の雰圍氣がわかるではないか。みながそれぞれ夢をも
つており、なんかぬらとした南蛮渡来の部屋で詩をかき、ドムやシャンパンやアブサンや
老酒をのみ、纏足の少女を愛し、海ぞくせんの朋友がやつてくる。その中で、紺龍太郎こ
と、岡本彌太は、ベレー帽をあみだに冠り、こつこつ文撰をやつている。
 彌太は生前詩集としては「瀧」一冊しかもつていない。「瀧」の後で「山河」という詩集
題で豫約募集をやつていたが、「山河」という詩集題は別にあるのを知つたので、氣をくさ
らし止めてしまつて、ついに日の目をみなかつた。
 青騎兵には一頁とつて、紺龍太郎の詩集の廣告文が出ている。紺龍太郎詩集、二百部限
特刷出刊、コットンクリーム色、四六刷、¥1.50で、
「青騎兵詩房はその第一期事業として紺龍太郎詩集を版行する。新しいこの彗星が装をこ
らして出るため青騎兵詩房はその準備に苦心を重ねてゐる。龍太郎にひそむ深い詩海につ
いて今更らしく廣言するを恥ぢる。私たちは彼と最も高い友誼に於て彼の永い間の鬱屈し
た極地のあたらしい太陽のやうな明麗な精神の首途を祝ふに相應しい新しい革袋を用意す
るのみである。そしてこれが實に南日本詩的閲歴の最初の進軍喇叭たらしめたい。充分な
る確信を持つて、昭和三年十月。」
 と。これによると、「瀧」以前に詩集刊行を計畫しているので、「瀧」の前、後で都合
二冊詩集刊行を計畫して、刊行に至つていないことになる。
 彌太は海邉に育ち、殆ど人生の大半を海邉でおくつたことに由来してか、筆名の紺龍太
郎にしろ、彼の詩篇には海をうたつたものが多くをしめている。この青騎兵が何號までつ
づいたか、いずれ正確な資料を集めて補筆したい。この雑誌がいかなる世評をかちえたか
知らないが、おそらく彼等の期待にはそつてくれなかつたではないかと思う。以後彼は同
人詩への魅力を失い、こつこつ詩を貯めていたという。高知市にいた當事の若い連中が、
田舎にえらい詩人がおるというので、彌太をひき出しに行つたのもこの時期らしいが、す
べてを拒絶したことをきいている。彼が「詩神」に投稿したきつかけについては何も知ら
ないが、宮崎孝政に認められ、岡本彌太、藤田文江、間野捷魯等の駿馬が詩壇におどり出
していつた。宮崎孝政氏あたりにきいてみると、彌太が田舎の同人誌に見きりをつけ、齢
三十を越し、今さら投稿欄でもあるまいという位置にありながら、またあまり社交的でな
い彼が、あえて「詩神」に投稿しはじめた、そのいきさつについて是非知りたいものであ
る。
 この鍵によつて、彌太の眼はひらけ、日本詩壇の展望というものもきいて来、「鬣」に
参加し、「鸞」により、結果、詩集「瀧」を得たわけである。「瀧」はまことに得がたい
詩集である。「鸞」十一號の後記に彌太は、「瀧」の賣切絶版をつげ、
「贈を求めて来られる諸氏もあつたが右の都合恕して貰ひたい。普及版の話もあるが、絶
版といふことも清々しくてよい。普及本にまでして頂ける篤志家があるなら全部お委せし
たい。賣れない詩集が賣れた。馬鹿々々しいことでも何でもない。長年の心の晶水を溝に
流したくもないのではないか。詩集こそ、もつと賣れてよい筈のものだ。」
 と、大へん氣をよくしている。彼の貧乏暮しは有名で、前後二回彼のために、岡本彌太
後援會の名で義援金を募集している。私はこの擧にはあまり關係がなかつたので、そうい
う方向で親しかつた人に、彌太の貧乏の原因をきいてみた。
「彌太さんは酒に金を使つたんですか。それとも女にですか。」
「さあ、はつきりわかりませんね。若い時はよく料理屋でのみましたが。晩年は家でのみ
ましたよ。しかし、人が尋ねてくると、ただでは歸しませんでした。必ず酒です。」
「女は。」
「私の知つている限りにおいて、二回戀愛をしました。二人とも小學女教師でしたが、は
じめのひとは美人でしたが、淡々としていました。二回目のはうるさかつたですね。」
「それで。」
「女に金を使つたことはないですがね。とにかく生活能力のない奴で、金に困ると、すぐ
教師を止めて、退職金をもらおうと云いだしましたよ。」
 生家も田畑も賣つてしまつて、晩年入院してからも殆ど、他人の世話になつていた。彌
太は幾度か大阪行きをくわだて、北支にいきたいと私にたのんできたこともあり、青島の
友人の世話で渡支することにほぼ決定したらしかつたが、自分からそれを止めてしまつた。
おそらく彼の氣弱さからだつたと思うが、彼はものうくくらがりに坐つて、なすともなく
ペンをとつている性質だつた。三十五歳の時の私宛の手紙によると、「今自分はメカニック
なものと宗教的なものを合致さした詩作品をこしらへようと思つてゐます。」と書いてあ
るが、内に立てこもつて、案外目はそとにはなかつたと思う。五體の弱かつたことにも原
因するだろうが、晩年の作品はいよいよ泥くさいものではなく、象徴的に高く、東洋的ニ
ヒリズムに徹していたようである。しかし私は信用している。彌太の凡有な詩人ではなか
つたことを。是非もう一度彼の作品を世に出して、正當な位置につけたいものである。
    ○
 追記 ずいぶん雑なことを書いてきた。私達は十二月二日、彼の五周忌を目あてに詩碑
建設を急いでいる。場所は彼の生地、高知縣岸本町濱邉。
 詩は
    白牡丹圖
  白い牡丹の花を
  捧げるもの
  劍を差して急ぐもの
  
  日の光青くはてなく
  このみちを
  たれもかへらぬ
 書は高村光太郎氏に依頼し、設計は彌太舊知の彫刻家島村治文氏がやる。大方の人々の
御支援を願いたいものである。(十月十六日、雨の日、ザクロ赤く、百舌なく。)
       

                                島崎曙海

                                 
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